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那智四十八滝(なちしじゅうはちたき)は、那智原始林(和歌山県那智勝浦町)にある60余に達する多くの滝のうち48の滝を瀧篭行の行場として、番号と諸宗教(神道を中心に、儒教、仏教、道教、陰陽五行説など)にもとづく名が与えられていたものを総称したものである〔中嶋114 〕。 == 概要 == 那智山中の滝は古くからあり、延喜7年(907年)には浄蔵が滝修行を行ったと『扶桑略記』は記し、青岸渡寺開山と伝えられる裸形上人をはじめ、役小角・伝教大師・弘法大師・智証大師・睿豪といった那智七仙徳が千日行を遂げたと『熊野山略記』は伝える〔平凡社621-622 〕。こうした修行者たちだけでなく、花山法皇も二の滝の断崖上に庵を設けて千日瀧篭行をしたと伝えられ、那智山における瀧篭行場として修験道の重要な行場となり、中世から近世にかけては全国から数多くの修行者が参集した〔。 このように重要な行場であった那智四十八滝であるが、厳格さや秘密性が特に強く〔、滝のある那智山内の原始林は禁足地とされ〔篠原16 → 2008: 641 〕、行法や作法の伝授〔のみならず、所在も全て社家一子相伝の口伝のみに委ねられていた〔篠原18 → 2008: 643 〕ため、詳細を伝える文献記録はきわめてわずかなものしか残されていない。『熊野山略記』は那智七滝の名を挙げ〔平凡社622 〕、文献によっては那智十二滝とするものもある〔。聖護院門跡による文化3年(1806年)の入峯に際し、滝修行先達大蔵坊に属する完済・頼済の両名が門跡の案内に当たったことを機に作成され、嘉永4年(1851年)に書写された『名滝祭所行所案内』〔〔篠原18-21 → 2008: 643-646 〕、さらにその子孫である鈴木直千代による1889年(明治22年)の記録〔などがあるに過ぎない。 しかし、明治時代の神仏分離令・修験道廃止令によって、これらの行を支えた神仏習合的な信仰が失われたことにより、明治初期以降、滝修行は廃れ、那智四十八滝の実像は不明となっていた。こうした状況にあった那智四十八滝の再確定に取り組んだのは、青岸渡寺副住職であった高木亮英であった。高木は、1987年(昭和62年)に死去した青岸渡寺住職であった父・高木亮孝の遺品の中から山伏の装束一式を発見し、熊野修験の再興への父の思いを知ったことを機に、熊野から吉野へ向かう順峯(じゅんぶ)による大峯奥駈行の再興に取り組み始めた〔高木53 〕。 翌1988年(昭和63年)、高木は熊野から吉野へ向けての順峯による奥駈を実現し、次いで1991年(平成3年)、那智四十八滝における滝行の復活を目指す高木らによるプロジェクトチームが山中の調査を行った〔〔高木〕。前述のような事情により、四十八滝に関する文献資料は乏しかったが、南画家・稲田米花(1890年(明治23年)2月23日 - 1985年(昭和60年)12月6日)による『那智四十八滝図巻』(1931年(昭和6年))が大きな手がかりになり、悪天候や山中の刈拓きなどの困難に見舞われたものの、80日間で調査を完遂し、その記録を那智大社と青岸渡寺に奉納した〔中嶋115 〕。翌1992年(平成4年)、高木らは那智四十八滝回峯行を再興し、以来、青岸渡寺による大峯奥駈行の一環として毎年執行されている〔宇江11-22 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「那智四十八滝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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