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那波 利貞(なば としさだ、1890年(明治23年)8月1日 - 1970年(昭和45年)10月20日)は、日本の東洋史学者、文学博士、京都大学名誉教授。徳島市生まれ。誠軒と号す。 == 生涯 == 生家は江戸初期以来の藩儒の家柄。11代前の那波道円(号は活所、1595年-1648年)は紀州藩に仕え、道円の子の那波元成(号は木庵、1614年-1683年)には『老圃堂詩集』の著書がある。5代前の那波師曾(字は孝卿、号は魯堂、1727年-1789年)は春秋の学を修め、『左伝標例』の著書があり、阿波藩に使えた。以後、那波家は、利貞の父、那波韋(字は緩卿、号は蜆北)まで、代々阿波藩に藩儒として仕えた。 1898年(明治31年)、利貞が8歳の時、父の韋が亡くなり、利貞は母の旧姓多賀氏より経学の教えを受けた。 徳島県立徳島中学校を卒業し、第三高等学校大学予科に入学し、第一部乙類に所属した。 1912年(大正元年)7月、第三高等学校を卒業し、京都帝国大学文科大学史学科に入学し、東洋史学を専攻した。1915年(大正4年)に京都帝国大学を卒業し、同大学院に進学した。 1921年(大正10年)、第三高等学校教授。1929年(昭和4年)、京都帝国大学助教授。1931年(昭和6年)より2年間、文部省の在外研究員となり渡欧、フランスで敦煌文献の調査を行なう。 1938年(昭和13年)、京都帝国大学教授、文学部東洋史学第一講座を担当した。同年、「唐の開元・天保初期の交が時世の一変転期たるの考証」にて、文学博士。 1953年(昭和28年)8月、京都大学を定年退官。最終講義は、「唐代の庶民教育における算術科の内容とその布算方法について」と題して、10月11日に京都大学楽友会館で行なわれた。9月、名誉教授。同月、京都女子大学教授。後、甲南大学教授。 1970年(昭和45年)10月に没し、京都市左京区百万遍の了蓮寺で葬儀が営まれた。享年81。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「那波利貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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