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那須 資弥(なす すけみつ、寛永5年(1628年)- 貞享4年6月25日(1687年8月2日))は、江戸時代前期の大名、下野烏山藩初代藩主。青木利長の次男。養父は那須資景。正室は土井利勝の娘。子は増山正弥(長男)、福原資寛(次男)。養子に那須資徳(津軽信政の三男)。初名は高春、資政。別名は資祇。通称は千福、友之助。官位は従五位下遠江守。 == 生涯 == 姉のお楽の方(宝樹院)は、3代将軍徳川家光の側室であり、4代将軍徳川家綱の生母であった。正保4年(1647年)12月5日、家光に御目見し蔵米2000俵を与えられ、後に小姓に加えられる。慶安4年(1651年)8月16日、従五位下右衛門佐に叙任される。後に遠江守に改めた。 承応元年(1652年)2月18日、旗本那須資景の養子となる。明暦2年(1656年)に資景が没し、その遺領5,000石を相続し旗本となった後も、小姓時代の蔵米2000俵は引き続き支給された。寛文4年(1664年)12月8日には下野那須郡内で5000石を加増されると同時に蔵米2000俵の俸禄は新規の采地2000石に改められ、所領は合計1万2000石となった。ここで那須氏は大名となる石高に達したため、那須藩を再び立藩し、福原に陣屋を構えた。 天和元年(1681年)2月25日、下野国那須郡内で8000石を加えられ2万石にて烏山藩を立藩し、烏山城を居城とする。 長男の増山正弥は兄増山正利の養嗣子となっていたため、天和3年(1683年)閏5月1日、津軽信政の三男の資徳を養子に迎える。 幕府に提出した養子縁組の願書には、候補者として共に親族である津軽政直(12歳、後の那須資徳。実兄の増山正利の娘である不卯姫の子)と増山正元(3歳。実の長男で増山正利養子の正弥の次男)を挙げて、年齢などにより、前者に決定したとある。しかし養子縁組に際し、次男の資寛の存在を隠していた。 貞享4年(1687年)6月25日、死去、60歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「那須資弥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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