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那須 高資(なす たかすけ、生年不詳 - 天文20年1月22日(1551年2月27日))は戦国時代の武将で、下野国の戦国大名。家系は那須国造の末裔で鎌倉幕府御家人として下野那須地方を領有した那須氏の当主。那須政資の嫡男(母は岩城常隆の娘)。那須資胤は異母弟。修理大夫。第3代古河公方・足利高基より偏諱を受けて高資と名乗る。 == 生涯 == 永正の乱以降の古河公方家の内紛の影響は下野の諸氏にも及び、那須氏においても高資を擁立する大関宗増らが当主政資と敵対し、下野宇都宮尚綱や常陸佐竹義篤、小田政治と結んだ父に対抗するため、母の実家の陸奥岩城氏や結城晴綱、下総結城政勝、下野小山高朝兄弟と手を結んだ。1539年には烏山城をめぐり父と戦火を交えている。1542年には大関宗増が大田原資清の攻撃を受けている。1544年頃には父より正式に家督を譲られたと見られている。 独立心の強い那須家中の統制の強化を図ったが失敗に終わっている。 後に第4代古河公方・足利晴氏(高基の子)の命により侵攻してきた宇都宮氏と抗争し、1549年(戦いの時期には諸説ある)の喜連川五月女坂の戦いで小勢を率い、伊王野資宗らの奮戦により大軍を率いて侵攻した宇都宮尚綱を討ち取るという大勝を収め、当主を失った宇都宮氏の混乱に乗じ版図を塩谷郡の一部まで拡張することに成功した。 しかし、これによって宇都宮氏に復讐の的とされた高資は、1551年に宇都宮氏の家臣・芳賀高定の謀略にかかり、最終的には家臣の千本資俊に誘殺された。 なお、これ以前より高資と重臣大田原資清の娘を母とする異母弟・資胤とは家中で対立しており、高資は資胤を阻害し追放する一方で佐竹義昭の子との養子縁組を進めていた。高資の死後家督を継いだ資胤は下手人である千本資俊をかえって側近として重用するなど、高資横死は資胤を支持する大田原資清を筆頭とする上那須衆(大関氏・千本氏)らの意向にも沿うものであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「那須高資」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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