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邵続 : ウィキペディア日本語版
邵続
邵続(邵續、しょう ぞく、生年不詳 - 321年)は、中国晋代軍人は嗣祖。本貫魏郡安陽県
== 経歴 ==
散騎侍郎の邵乗の子として生まれた。質素ながら強い志を持ち、経書や史書を広く読み、談論を得意とし、天文に詳しかった。はじめ成都王司馬穎の参軍となった。司馬穎が長沙王司馬乂を討とうとしたとき、邵続は左右の手の片方を取り去るものと言って諫めたが、司馬穎は聞き入れなかった。後に邵続は苟晞の参軍となり、沁水県令に任じられた。
天下が混乱してくると、邵続は沁水県から立ち去って家に帰り、亡命者を糾合して、数百人をえた。王浚は邵続を仮の綏集将軍・楽陵郡太守に任じ、厭次に駐屯させ、邵続の子の邵乂を督護とした。邵続は流散した人々を手なづけて、多くを帰順させた。314年建興2年)、石勒が王浚を破ると、邵乂を派遣して邵続を招聘した。邵続は孤立無援であり、やむなく石勒についた。石勒は邵乂を督護とした。ときに段匹磾が薊におり、邵続に手紙を出して司馬睿に帰順するよう求めると、邵続はこれに従った。部下が「いま石勒を捨てて段匹磾につくと、お子が危うくなります」と言って諫めたが、邵続は「子をかえりみて叛臣となれようか」と涙を流し、石勒と絶交した。そこで石勒は邵乂を殺害した。邵続は石勒の攻撃に備えて、先に段匹磾に救援を要請していた。段匹磾は弟の段文鴦を邵続の救援に送った。石勒は8000騎を率いて邵続を包囲したが、段文鴦がやってくると、攻城具を捨てて東に撤退した。邵続と段文鴦は安陵まで石勒を追撃したが、追いつけず、石勒の任じた官吏らを捕らえて帰還した。また騎兵を派遣して石勒の領地の北辺を脅かし、常山を襲って帰還した。
318年大興元年)、段匹磾が劉琨を殺害すると、劉琨の旧部下たちは段匹磾に従うのをよしとせず、邵続を頼るようになった。また後趙南和県令の趙領らが広川や渤海1000家あまりを率いて石勒から離反し、邵続に帰順した。邵続は元帝により平原楽安二郡太守・右将軍冀州刺史に任じられ、平北将軍・仮節に進められ、祝阿子に封じられた。邵続は兄の子の邵存や段文鴦に段匹磾の部下を率いさせて平原に食を求めさせたが、後趙の石虎に敗れた。ときに邵続は青州曹嶷と互いに侵攻しあっていた。曹嶷は邵存らが敗れたと聞くと、邵続の屯田を襲い、その戸口を略奪して、邵続が救援に駆けつけたときには逃げ出して、奔命に疲れさせた。邵続は邵存や段文鴦を派遣して済南の黄巾固に駐屯させ、曹嶷を圧迫させた。曹嶷は恐れて、講和を求めた。
320年(大興3年)、段末杯が段匹磾を攻撃すると、段匹磾は邵続と協力して反撃し、段末杯を撃破した。後趙の石勒は虚をついて石虎を派遣し、邵続を厭次に包囲させた。石虎が城下で住民をさらったため、邵続はその救援のため出陣した。石虎は伏兵でその背後を遮断して、邵続を捕らえた。石虎は邵続に厭次城の兵を説得させて、降伏させようとした。邵続は兄の子の邵竺らに「わが志は国難をそそぐにあり。報いをもって受けるところ、不幸にもここにいたった。汝らは努力自勉し、すなわち段匹磾を奉じて主となし、二心あるなかれ」と呼ばわった。
東晋の元帝(司馬睿)は邵続が捕らえられたと聞くと、邵続の子の邵緝に後を継がせた。石虎は邵続の身柄を襄国の石勒のもとに送った。石勒は徐光を派遣して邵続を責めさせたが、その忠誠心に感心し、張賓に命じて邵続のために館を準備させ、従事中郎に任じるなど厚遇させた。
邵存や邵竺・邵緝らは段匹磾とともに厭次城に籠もって抵抗しており、邵存は仮の揚武将軍・武邑郡太守となった。石勒はたびたび石虎を派遣して、厭次を攻撃し、消耗させた。321年(大興4年)、厭次は陥落し、段匹磾とその弟の段文鴦および邵竺・邵緝らはみな捕らえられた。ひとり邵存は包囲を突破して南に逃れたが、道中で賊に殺害された。邵続もまたついに殺害された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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