翻訳と辞書
Words near each other
・ 郁久閭庫提
・ 郁久閭斛律
・ 郁久閭歩鹿真
・ 郁久閭登注
・ 郁久閭皇后
・ 郁久閭社崙
・ 郁久閭菴羅辰
・ 郁久閭豆崙
・ 郁久閭車鹿会
・ 郁久閭那蓋
郁久閭鄧叔子
・ 郁久閭醜奴
・ 郁久閭鉄伐
・ 郁久閭阿那カイ
・ 郁保四
・ 郁南県
・ 郁原ゆう
・ 郁姫
・ 郁子
・ 郁州


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

郁久閭鄧叔子 ( リダイレクト:郁久閭トウ叔子 ) : ウィキペディア日本語版
郁久閭トウ叔子[いくきゅうりょ とうしゅくし]

郁久閭鄧叔子(いくきゅうりょ とうしゅくし、拼音:Yùjiŭlǘ Dèngshūzǐ、? - 555年)は、柔然最後の可汗(カガン:君主)。阿那瓌の叔父。
== 生涯 ==
西魏廃帝元年(552年)1月、突厥土門は兵を発して柔然を撃ち、懐荒の北で大破した。これによって可汗の阿那瓌は自殺し、その子の菴羅辰北斉に奔走したため、柔然の別部は阿那瓌の叔父である鄧叔子を立てて主とした。土門は自ら伊利可汗と号し、北斉と通使を往来させた。伊利可汗が死去し、息子の乙息記可汗が即位すると、突厥は鄧叔子を沃野の北にある木賴山(賴山)〔『周書』は「木賴山」、『北史』は「賴山」と表記。〕で破った。
西魏の廃帝2年(553年)、乙息記可汗が死去し、その弟の木汗可汗(木杆可汗)〔『周書』は「木汗可汗」、『北史』は「木杆可汗」と表記。〕が即位すると、突厥はふたたび鄧叔子を撃破する。
西魏の恭帝2年(555年)、遂に鄧叔子はその部族千余家を率いて関中に奔走した。勢い盛んな突厥であったが、西魏と通好を望んでいたことと、鄧叔子の余衆が中国の援助を得ることを恐れたため、木杆可汗は使者を続けざまに送って鄧叔子らの誅殺を請願した。西魏の宇文泰はこれを許可し、鄧叔子以下三千余人を捕縛して突厥使者に引き渡し、長安の青門外で殺させた。中男(11歳以上17歳未満の男子)以下は免れ、みな西魏の王公家に配られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「郁久閭トウ叔子」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.