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郤 克(げき こく)は中国春秋時代の晋の政治家、将軍。 ==邲の戦い== 郤缺の死後、その後を継いだ郤克は、本来ならば第六位の下軍の佐として晋卿入りする所だったが、景公の特別の引き立てで、第四位の上軍の佐に抜擢され、上軍の将の士会の補佐を勤める事になった。 この直後の紀元前597年、荘王率いる楚軍が鄭に攻め込んで来た事から、邲の戦いが勃発した。 士会は楚軍の勢いから、撤退を主張したが、中軍の佐の先穀がこれを無視して戦闘準備に入ると、郤克は司馬の韓厥に先穀の処罰を求めたが、韓厥に無視される。 その後、士会が戦闘回避を取りまとめるが、郤克は、楚への使者の魏錡と趙旃が和睦を破壊する為に出向いた事を察知し、士会に防備を勧める。 この後の戦闘で、中軍と下軍が崩壊する中、士会と郤克の上軍は万全の防御体制を敷いていたため、被害を出さずに退却することができた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「郤克」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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