翻訳と辞書
Words near each other
・ 郫
・ 郫県
・ 郬
・ 郭
・ 郭 (姓)
・ 郭エン
・ 郭キュウ
・ 郭コウ霆
・ 郭シ
・ 郭ミン整
郭丹
・ 郭仁植
・ 郭伋
・ 郭伯雄
・ 郭佑鐘
・ 郭侃
・ 郭俊麟
・ 郭元益お菓子博物館
・ 郭元益食品
・ 郭光雄


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

郭丹 : ウィキペディア日本語版
郭丹[かく たん]
郭 丹(かく たん、紀元前24年 - 62年)は、中国前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は少卿荊州南陽郡穣県(河南省鄧州市)の人。父の郭稚は、成帝の代に廬江太守となり、清廉をもって名声があった。
== 事跡 ==

郭丹は7歳にして孤児となったが、幼いながらも孝順な性格であったため、継母はこれを憐れみ、自らの衣装を売って、郭丹の生活の足しとした。その後、長安に遊学すると、郭丹は常に講義を開き、儒者たちはこれを敬重した。
代に大司馬荘尤(厳尤)が郭丹を招聘したが、病気と称して応じなかった。さらに王莽までが郭丹を招聘すると、北地郡へ逃走した。
更始2年(24年)、更始帝(劉玄)配下の三公大司空陳牧、大司馬は朱鮪大司徒が誰かは不詳。〕が郭丹を賢明にして有能と推挙したところ、郭丹は諫議大夫に任命され、符節を持って南陽へ向かい、民衆などの鎮撫・降伏受諾(「安集受降」)を受け持った。
更始政権が滅亡すると、多くの者が光武帝(劉秀)に帰順したが、郭丹は平氏(南陽郡)に拠って降ろうとせず、更始帝のために喪を発し、喪服を纏って哀悼の意を示した。建武2年(26年)、郭丹は遂に逃亡し、更始帝の妻に符節を返還して帰郷した。その後、南陽郡太守杜詩が郭丹を功曹として招聘したが、郭丹は郷里の長者を代わりに推薦し、杜詩から賛嘆されている。
建武13年(37年)、大司馬呉漢の招聘の選挙で優秀な成績とされ、并州牧に遷り、穏やかに統治した(「清平」)との評価があった。その後、匈奴中郎将、左馮翊を歴任した。永平3年(60年)、李訢に代わり司徒に就任した。朝廷に在っては廉直公正で、侯覇杜林張湛郭伋と同等の名声を得た。ところが翌永平4年(61年)、隴西太守鄧融に対する捜査で有罪とする証拠が発見できなかったため、その責任を取らされて、あっけなく罷免された。
永平5年(62年)、死去。享年87。郭丹は清廉にして家産を蓄えなかったため、一時、子孫は困窮した。しかしその後、明帝の引立てを得て、長子の郭宇は常山太守にまで、末子の郭済は趙国相にまで、それぞれ昇進した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「郭丹」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.