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郭寄キョウ : ウィキペディア日本語版
郭寄キョウ[かく ききょう]

郭 寄嶠(かく ききょう、)は、中華民国台湾)の軍人・政治家。最初は奉天派に属したが、後に国民軍直隷派を経て国民革命軍易幟する。衛立煌の側近として知られ、台湾では国防部長にまで昇進した。旧名は季嶠光靄
== 事績 ==

=== 衛立煌側近となる ===
清河陸軍第一予備軍官学校を経て、1923年民国12年)8月、保定陸軍軍官学校第9期砲兵科を卒業した。その後、郭寄嶠は奉天派の東北陸軍指揮官である郭松齢の部隊に所属することになる。1925年(民国14年)11月、郭松齢が馮玉祥と連合して東北国民軍を結成、反張作霖の兵変を起こしたが、翌月に敗北、処刑された。東北国民軍の残軍は、同軍参謀長であった魏益三により国民軍第4軍に改編されて馮の下に属し、郭寄嶠も魏に従っている。〔王・李(1999)、503-504頁。〕〔劉国銘主編(2005)、1849頁。〕〔徐主編(2007)、1276頁。〕
郭寄嶠は魏益三に重用されて同軍参謀長に昇進した。1926年(民国15年)夏、魏は兵糧不足から馮と対立して呉佩孚に降り、討赤聯軍第8軍軍長となったため、郭もそのまま同軍参謀処処長となる。同年冬、呉が国民革命軍北伐軍に敗北したため、魏はさらに易幟して国民革命軍第30軍軍長となり、郭も同軍参謀長となった。この間の魏は度重なる易幟に際して様々な電文を発したが、原稿は郭が作成したものである。〔王・李(1999)、504頁。〕〔〔
北伐完了後、郭寄嶠は魏益三の能力を見限り、湖南軍の何鍵をまず頼りその参謀長となった。しかし、何は地元出身者を優遇したため、郭はやはり長く留まることはできなかった。1930年(民国19年)初めに安徽省出身の衛立煌率いる第45師へ転じ、同師参謀長として起用される。1932年(民国18年)5月、第45師が第14軍(衛がそのまま軍長)に昇格したことに伴い、郭は同軍参謀長に任ぜられた(翌月、軍事参議院参議も兼任)。〔王・李(1999)、504-505頁。〕〔〔徐主編(2007)、1276頁。ただし当該資料は第14軍を「第54軍」と誤記し、さらに時期についても誤りが散見される。〕
この間、郭寄嶠は紅軍中国共産党)討伐や福建事変鎮圧などで手腕を示し、衛の信任を獲得している。1936年(民国25年)1月、郭は陸軍少将銜を授与され、また、この頃までに藍衣社(中華民族復興社)に所属している。同年12月、西安事件が勃発した際には、衛と共に張学良に拘留された。翌1937年(民国26年)4月、陸軍中将に昇進している。〔王・李(1999)、505頁。〕〔〔

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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