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郭 沫若(かく まつじゃく Guo Moruo)は中華民国、中華人民共和国の政治家、文学者、詩人、歴史家。原名は郭開貞で、開貞は諱、沫若は号にあたる。字は鼎堂。中国の近代文学・歴史学の先駆者。 == 経歴 == 四川省嘉定府楽山県生まれ。1914年に日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。在学時から文学活動に励み、1921年に文学団体「創造社」の設立に参加する。この設立の仲間に、郁達夫や成仿吾、張資平、鄭伯奇などがいる。この間に処女詩集『女神』を発表。 その後国民党に参加するも、反帝国主義運動によって発生した五・三〇事件で左傾化した。北伐軍の総政治部主任となるが、1927年蒋介石と対立後に南昌蜂起に参加し、直後に中国共産党に加入。蒋介石に追われ、1928年2月日本へ亡命。千葉県市川市に居を構え、中国史の研究に没頭する。『中国古代社会研究』、『両周金文辞大系考釈』、『我的幼年』などを執筆した。1937年の盧溝橋事件が起こると日本人の妻らを残し帰国して国民政府に参加した。1942年に重慶で戯曲『屈原』を発表、大きな反響を呼ぶ。 1946年国共合作のための協商会議に参加。決裂後に内戦反対運動を推進し、戦後は中華人民共和国に参画して政務院副総理、中国科学院院長に、1950年全国文学芸術連合会主席、1954年には全人代常務副委員長に就いた。1958年共産党に入党。1963年中日友好協会名誉会長。文学・史学の指導に努めるが、反右派闘争以降は発言や作風が毛沢東に迎合するようになる。人民共和国建国後の作品には、『蔡文姫』『武則天』などがあり、いずれも北京人民芸術劇院によって上演された。特に『蔡文姫』は焦菊隠の演出が高く評価され、21世紀の今日まで繰り返し上演されている。 文化大革命発生直後の1966年4月14日、全人代副委員長として常務委員会に出席した郭沫若は、「今日の基準で言えば、私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き捨てるべきで少しの価値も無い」との自己批判を行った。既に呉晗、廖沫沙らが打倒されるなか自身を守るためであったが、知識人の思想改造の成功例として取り上げられ毛沢東の庇護を受けた。 毛沢東や江青らの詩を賛美し、批林批孔運動に乗り、著書『李白と杜甫』で杜甫を貶めた。しかし四人組が逮捕されると一転して彼らを批判する詩を発表した。これら文革期の言動が彼全体の評価に影響している。 1971年、科学院院長、全国人民代表大会常任委員会副委員長を務めたが、1978年北京で病没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「郭沫若」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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