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郭 泰祺(かく たいき)は中華民国の外交官・政治家・教育者。護法運動の際に孫文(孫中山)の下で外交活動に従事し、国民政府でも外交部長を務めた要人である。政治的立場は反蒋介石であった。字は保元。号は復初。 == 事跡 == === 北京政府時代の活動 === 秀才の家に生まれる。1902年(光緒28年)、張之洞が創設した新式学堂である武昌湖北省五路高等小学堂に入学した。後に張からその才識を評価され、1904年(光緒30年)に公費でアメリカに留学した。学業を重ねた後に、1908年にペンシルベニア大学に入学し、政治学を専攻する。1911年、優秀大学生の栄誉称号を獲得し、同年6月には大学院に進学した。また留学期間中はジャーナリストとしても活動している。〔以上、邵(2000)、98頁による。徐主編(2007)、1273頁と劉国銘主編(2005)、1848頁によると、1909年(光緒元年)に郭は帰国して湖北方言学校を創設、自ら校長に就任した、としている。しかしこれが事実であれば、郭は当時数え年22の若さで校長に就任したことになる。〕 辛亥革命勃発の報を聞くと、郭泰祺は1912年(民国元年)に帰国し、湖北軍政府外交股長に任命された。同年8月、国民党が結成されると、これに加入している。翌年2月、黎元洪が副総統に任ぜられると、郭は英文秘書としてこれに随行し、北京入りした。1916年(民国5年)6月、袁世凱死去に伴い、黎元洪が大総統に昇格すると、郭は高等顧問兼外交部参事に任ぜられている。翌年7月、張勲復辟が起き、黎が失脚すると、郭も下野した。その後は湖北省に戻り、湖北方言学校や武昌国立外語学校、武昌商科大学で校長をつとめる。〔邵(2000)、98-99頁。〕〔徐主編(2007)、1273頁。〕〔劉国銘主編(2005)、1848頁。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「郭泰祺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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