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郭 英 ( かくえい 1335年 - 1403年 ) は、元末から明初の軍人。濠(現在の安徽省鳳陽県)の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。兄の郭興も朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。 ==生涯== 1353年、18歳のとき、朱元璋と行動を共にする。朱元璋の宿衛を守備し、信頼厚く、郭英を『郭四』と呼ぶほどであった。同年、定遠攻略に参加した24将の1人。滁州、和州、采石、太平攻略に参加した。 1363年、鄱陽湖の戦いに参加し、功績を上げる。 1364年、武昌攻略に参加した。陳理軍の陳同僉が長柄の矛で突入してきた。朱元璋は郭英を呼び、討ち取るよう命じた。郭英は陳同僉を討ち取り、朱元璋から戦袍を賜った。岳州を攻め、援軍を破った。廬州、襄陽を攻略した。功績により、驍騎衛千戸となった。淮安、濠州、安豊を攻略し、指揮僉事に進んだ。 1368年(洪武元年)、徐達に従い、北伐へ参加した。常遇春に従い、ココ・テムルを敗走させ、興州、大同を攻略した。西安、鳳翔、鞏昌、慶陽を攻略し、駕宗哲を乱山で破って、本衛指揮副使に進んだ。定西に進み、チャガンノール(察罕脳児)を攻略した。寧州を攻略し、2千の敵兵を斬首した。河南都指揮使に進んだ。赴任する際、妹の郭寧妃に、白金20、馬20を餞別として贈った。民の流亡を抑え、法律を明らかにしたため、河南地域をよく治めた。 1376年(洪武9年)、北平に移った。 1380年(洪武13年)、召還されて前軍都督府僉事に進んだ。 1381年(洪武14年)、傅友徳に従って、雲南攻略に向かった。陳桓、胡海と共に赤水河を進んだ。雨が長く降り続け、河は氾濫した。郭英は筏を作り、夜に進軍した。敵陣営は驚き、壊乱した。敵将の烏撒並阿容らを捕らえた。曲靖、陸涼、越州、関索嶺、椅子寨を攻略した。大理を降し、金歯、廣南にある山寨を攻略した。 1383年(洪武16年)、傅友徳に従って、蒙化、鄧川、済金沙、北勝、麗江を攻略した。これらの攻略戦で、斬首1万3千、捕虜2千、武具数万、船1千余りという戦果を得た。 1384年(洪武17年)、雲南地方を平定した功により、武定侯に封ぜられ、食禄2千5百石を賜った。 1385年(洪武18年)、靖海将軍となり、遼東地方を守備した。 1387年(洪武20年)、馮勝に従い、金山で哈出を降した。征虜右副将軍に進んだ。藍玉に従い、ブイル湖に至った。褒賞を賜り、故郷へ戻った。 1397年(洪武30年)、征西副将軍として耿炳文と共に陝西を守備した。反抗した高福興を討伐した。御史の裴承祖が、郭英は無断で家奴150人を養い、男女5人を殺したとして弾劾した。御史の張春らが、この問題を朱元璋に奏上し続けた。朱元璋は大臣らに命じて、この問題について議論させた。協議の結果、朱元璋はこの問題を許した。 1399年(建文元年)、靖難の変では建文帝側として、耿炳文、李景隆と共に戦ったが、功を上げることはなかった。靖難の変が終わると、免じられて屋敷へ戻った。 1403年(永楽元年)、67歳で亡くなった。営国公を贈られ、威襄と諡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「郭英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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