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郭鋒(かく ほう、? - 801年7月)は、唐の人物。唐の名将郭子儀の孫。父は太原公郭曜。通称は郭使君。官位は鴻臚卿兼御史大夫。 ==生涯== 789年(貞元5年)12月に回鶻(ウイグル)の第4代可汗アルプ・クトゥルグ・ビルゲ・カガン(Alp qutluγ bilgä qaγan、合骨咄禄毘伽可汗:唐の贈号は武義成功可汗・長寿天親可汗)の没後、即位した第5代可汗テングリデ・ボルミシュ・キュルグ・ビルゲ・カガン(Täŋridä bolmiš külüg bilgä qaγan、登里囉没蜜施倶録毘伽可汗、即位前は多羅斯特勒)に忠貞可汗の称号を冊立するため、冊立使として派遣された。 また、翌790年(貞元6年)4月に忠貞可汗が殺害されると、弔祭使として再び回鶻の地を踏んだ。 帰国の際に入唐告哀使の達比(北)特勒を伴った。達比特勒は入朝し、後継の可汗であるクトゥルグ・ビルゲ・カガン(Qutluγ bilgä qaγan、汨咄禄毘伽可汗、即位前は阿啜)の冊立を求めた。その際、郭鋒もその場に立ち会った。 後年、麟州刺史となったが、その在任期間中の801年(貞元17)7月、吐蕃の攻撃を受けて戦死した。 その死を聞いた回鶻の第7代可汗テングリデ・ウルグ・ボルミシュ・アルプ・クトゥルク・キュルグ・ビルゲ・カガン(Täŋridä uluγ bolmiš alp qutluγ külüg bilgä qaγan、唐の贈号は懐信可汗)ら回鶻の国人は皆、嘆き悲しんだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「郭鋒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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