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東京都交通局5000形電車(とうきょうとこうつうきょく5000がたでんしゃ)は、東京都交通局に在籍していた通勤形電車で、1960年(昭和35年)の都営地下鉄浅草線の開業に際して製造された車両である。 本項では旧・5000形6次車の5200形電車についても記述する。 ==形式別概要== ===5000形=== 開業時に全編成が2両編成で登場した。その後の路線延長とともに2両から5041以降は4両編成に、そして1968年(昭和43年)11月15日の泉岳寺 - 西馬込間の開通をもって浅草線(当時の1号線)が全通した際に6両編成化され、在籍車両数は152両となった。その後1991年(平成3年)より一部編成が8両編成化され、1995年までに8両編成に統一された〔ただし、同時に廃車も開始されているため、8連化されることなく廃車された車両も存在する〕。 車体側面の形状は、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)丸ノ内線用の500形に準じていた。台車の枕バネにはウイング金属バネ(軸箱支持装置は近畿車輛製シュリーレン式)を使用したが、最終新製車は空気バネとなった。主電動機出力はやや大きめだが歯車比が6.53と低速域重視であり、定格速度が低い上に弱め界磁制御も中速域までであった。さらにWN形駆動装置の影響で高速域では床が振動し始めるなど、高速性能が悪く、最高速度は100km/h程度が限度だった。そのため、京急線内での急行運転時はほとんど惰性走行することなくマスコンハンドルを入れたままで走行していた。 当初の他社線直通運用は京成電鉄本線の東中山駅までと京浜急行電鉄本線の京浜川崎駅(現・京急川崎駅)までが原則であったが、1981年(昭和56年)より京急線への乗り入れが逗子海岸駅(現・新逗子駅)まで、1983年(昭和58年)より京成線への乗り入れが京成成田駅までそれぞれ延伸された。京成線東中山以東まで直通する運用は原則として急行運用となり、5000形・5200形とも京成線の急行運用時には種別幕に「急行」を掲出するほか、専用の円形「急行」マークを貫通扉の窓に装着して運行した。 当初の車体塗装は、当時京成の通勤車両の塗装に合わせて上半身がクリーム色、下半身がオレンジ色で、中央に銀色の帯とステンレスの飾り帯(後期車は銀塗装のみ)を施していたが、京成の通勤車両がファイアーオレンジ色にステンレスの縁取りとモーンアイボリーの帯を施していた最中の1981年(昭和56年)より約10年掛けて車体更新の施工・車体塗装の変更が行われた。この工事は空気圧縮機をA-2形から絶縁性のよいC-1000形に、戸閉灯器の縦長2灯化と前照灯のシールドビーム化、ステンレスの帯の撤去、車体塗装のクリームと赤帯の軽快な2色塗りとなった。この期間は3色塗りと2色塗りの混色編成が多く見られた。ただし、全車両が更新された訳ではなく、未更新のまま廃車になった車両もある。旧塗装車は1991年(平成3年)の5057 - 5060編成の廃車により消滅している。なお、この旧塗装車は北総開発鉄道北総・公団線(現・北総鉄道北総線)への入線実績もある。1990年には4編成に浅草線開業30周年ヘッドマークを掲示して運用に入った。 なお、5024は1972年(昭和47年)に京成線内において踏切事故に遭遇し、先頭部を大破した。当時は既に4両編成以上での運行が常態化していたことから、2両編成の先頭車であった同車の運転台は不要とされ、復旧に際しては中間車化を実施し運転台を撤去した。破損した先頭部を切断し、新たな構体を組み立てる形で復旧されたため、外観・内装とも本来の中間車とほぼ同一であるものの、屋根縁のベンチレーターは先頭車用の仕様そのままとされ、本来の中間車と比較して通風口の数が一つ少ない点が異なる。 1991年3月31日からは北総・公団線への乗り入れも開始され、広域運用が目立つようになるが、非冷房であることとや老朽化のため、5300形への置き換えを開始した。置き換え最中の1993年(平成5年)4月1日の京急空港線羽田駅(現・天空橋駅)延伸後は主に千葉ニュータウン中央駅 - 羽田駅間を中心に運用されるようになった。これは当時の京急空港線では羽田駅の引き上げ線などの有効長が8両編成に対応していなかったため、5300形での運用ができなかったためである。5000形の廃車後の解体は馬込検車場(現・馬込車両検修場)のほか、京浜急行電鉄久里浜工場(現・京急ファインテック久里浜事業所)でも実施された。 そして、1995年(平成7年)7月2日に全車両が営業運転を終了し、同時に浅草線の車両は冷房化率100%となった。6月26日から7月2日にかけて、最後まで車籍が残っていた5097編成・5125編成を繋げた8両編成にヘッドマークを装備してさよなら運転を行い、6月26~30日は西馬込 - 押上間を数往復し、7月1日は羽田 - 千葉ニュータウン中央間、最終日の7月2日は西馬込 - 京成成田間にて、いずれも定期列車の運行ダイヤで行われ、記念Tカードも通常発売分(登場当時の塗装が図柄)と車内発売分(変更後の塗装が図柄)の2種類が発売された。その後、同車は休車を経て、久里浜工場まで廃車回送された。このため、最後の走行は1996年(平成8年)2月初頭であった。なお、都営地下鉄全体では1999年(平成11年)に6000形6141編成の休車をもって全車の冷房化を完了した。 5069は渋谷区西原にある東京消防庁消防学校の訓練用として活用されている〔訓練施設 - 東京消防庁ホームページ<東京消防庁の紹介><消防学校><施設の紹介:訓練施設>で確認可能〕。 5089と5092は営業運転終了後もしばらくの間旧・馬込車両工場内に保管されていたが、現在は解体されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東京都交通局5000形電車 (鉄道)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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