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都築 秀綱(つづき ひでつな、天文2年(1533年) - 慶長5年7月21日(1600年8月29日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。都築秀景の子。通称は惣左衛門。子に都築為政。 == 経歴 == 浜名湖北岸の遠江国引佐郡都築所領を有する国人で、はじめ今川氏に仕えた。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでの今川義元の敗死後も引き続き仕えており、永禄9年10月1日(1566年)付で、今川氏真から所領安堵の判物を拝領している。 永禄11年(1568年)末、三河国の徳川家康が遠江国に侵攻。年を越してなお侵攻した徳川方の本多忠勝、戸田忠次らに降伏し、500貫の所領を安堵された。その後、家康が直属軍強化のために新設した旗本先手役の一員に加えられた。以後は部隊長・本多忠勝の与力となった。 天正18年(1590年)、徳川氏の関東への国替えに伴い、本多忠勝が城持ち大名に出世すると、秀綱は付家老に抜擢される。自身3,500石に寄子給2,500石を合わせた6,000石を公儀から拝領していたという。 なお、秀綱とともに忠勝の配下でいた子の弥左衛門為政は、慶長6年(1601年)から徳川秀忠の旗本となったため、本多家から離れた。孫の云成からは再び惣左衛門の通称を用いた。これにより、忠勝系本多家の家老・都築氏は都築惣左衛門で定着することとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「都築秀綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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