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都藍可汗(とらんかがん、拼音:Dōulánkĕhàn、? - 599年)は、突厥の可汗。沙鉢略可汗の子。都藍可汗というのは称号で、正しくは頡伽施多那都藍可汗(けつきゃしただとらんかがん)といい、姓は阿史那氏、名は雍虞閭(ようぐりょ)という。 == 生涯 == 開皇7年(587年)、沙鉢略可汗が亡くなると、その遺言によってその弟の処羅侯が立つが、甥の雍虞閭に譲ろうとして、両者譲り合いをした結果、結局遺言どおり、処羅侯が葉護可汗として即位し、雍虞閭は葉護(ヤブグ:大臣)となった。しかし、葉護可汗が即位後まもなく流れ矢にあたって死去すると、国人たちは雍虞閭を立てて頡伽施多那都藍可汗とした。都藍可汗は早速遣使を送って隋に朝貢した。 開皇11年(591年)、流人の楊欽という者が突厥中に亡命しており、彭国公の劉昶に云いて大義公主と謀反を起こし、大義公主に命じて兵を発させ辺境を侵した。都藍可汗は楊欽を捕えた。都藍可汗は弟の欽羽設の部落が強盛なので、これを撃ち、陣にて斬首した。4月、都藍可汗はその母の弟の褥但特勤を隋に遣わして、闐玉杖を献上したので、文帝は褥但を拝して柱国とし、康国公とした。 開皇12年(592年)12月、突厥の部落大人(たいじん:部族長)は互いに遣使を率いて馬1万匹、羊2万口、駝,牛各500頭を献上した。さらに遣使を送って縁辺に市を置いて中国と貿易することを請願したので、文帝は詔でこれを許可した。大義公主はふたたび西面突厥の泥利可汗と謀反を起こしたので、都藍可汗は大義公主を斬首した。一方、都藍可汗は達頭可汗と敵対し、数回互いに征伐したので、文帝はこれを和解させ、双方は兵を引いた。 開皇17年(597年)、沙鉢略可汗の子の染干は突利可汗と号して、勝手に隋と関係をもったことから、大可汗である都藍可汗は激怒し、隋と国交を断絶し、たびたび辺境を侵すようになった。 開皇18年(598年)、隋は蜀王の楊秀に都藍可汗を撃たせた。 開皇19年(599年)、隋は漢王の楊諒を元帥として都藍可汗を撃たせた。都藍可汗は達頭可汗と手を組んで、突利可汗を攻撃し、その兄弟子姪を殺した。突利可汗は長孫晟と隋に逃げ込んだ。6月、高熲と楊素は達頭可汗を撃ち、これを大破した。文帝は突利可汗を拝して意利珍豆啓民可汗とし、義成公主を娶らせた。なおも都藍可汗が啓民可汗を攻撃し、隋の辺境を侵すので、越国公の楊素,行軍総管の韓僧寿,太平公の史万歲,大将軍の姚辯の軍勢は都藍可汗を攻撃した。この年の12月、都藍可汗は自分の麾下に殺された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「都藍可汗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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