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都賀 かつ(つが かつ、生没年不詳)は、日本の結髪係(映画スタッフ)である〔管家紅葉氏談話 、立命館大学、2013年5月23日閲覧。〕〔''都賀かつ''、日本映画データベース、2013年5月23日閲覧。〕〔''都賀かつ''、allcinema, 2013年5月23日閲覧。〕〔''都賀かつ''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月23日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == 生年・生地は伝えられていないが、舞台俳優であった都賀清司(1885年 - 1946年、本名・須永淸三郎)とある時点で結婚し〔キネマ旬報社, p.365.〕〔、1912年(明治45年)5月18日には、東京府東京市本郷区駒込坂下町(現在の東京都文京区千駄木2丁目あるいは3丁目)で、清司との間の長女・都賀静子(1912年 - 没年不詳、本名・須永靜子)が誕生し、その後、時期は不明であるが、長男・都賀一司が誕生している〔〔都賀静子 、''jlogos.com'', エア、2013年5月23日閲覧。〕。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災のため、一家で関西に移住した〔〔。 1925年(大正14年)6月、牧野省三が再度独立、御室撮影所を開いてマキノ・プロダクションを設立、夫の清司は長女・静子とともに、東亜キネマからマキノへ移籍したが、このとき、幼い長男・一司も子役として入社、かつ自身も結髪係として入社している〔〔〔。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、夫の清司・長男の一司は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門らとともに「俳優部男優」に、長女の静子は「俳優部女優」にそれぞれ名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年5月23日閲覧。〕。かつは、翌1930年(昭和5年)7月6日に公開された、長男・一司が子役出演する『少年戦線』(監督三上良二)の結髪係として、クレジットされた記録が残っている〔〔。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)6月、同社解散により退社した〔。1932年(昭和7年)、高村正次らが同所に設立した宝塚キネマ興行に都賀親子3人で移籍したが、かつが結髪係として入社したかどうかは不明である〔。同社は、給料遅配が4か月続き、1934年(昭和9年)2月には解散に追い込まれている〔。 その後の経緯は不明であるが、1937年(昭和12年)には、かつはゼーオー・スタヂオで結髪係を務めており、同年5月1日に公開された『故郷』(監督伊丹万作)〔〔故郷 、日本映画製作者連盟、2013年5月23日閲覧。〕、ひきつづき同社は合併により東宝映画京都撮影所となるが、継続的に在籍し、1938年(昭和13年)6月15日に公開された『花ちりぬ』(監督石田民三)にクレジットされた記録が残っている〔〔〔花ちりぬ 、日本映画製作者連盟、2013年5月23日閲覧。〕。 以降の消息は伝えられていない。没年不詳。 夫の清司は、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)に満61歳で死去した〔石割, p..〕。長女の静子は、東映京都撮影所を中心に、映画界に復帰、1968年(昭和43年)まで出演記録がみられる〔、2013年5月23日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「都賀かつ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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