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鄒 丹(すう たん、? - 194年)は、中国後漢時代末期の武将、または政治家。『後漢書』公孫瓚伝と『三国志』魏書公孫瓚伝に登場する。 公孫瓚配下で、漁陽太守に任命されていた。初平4年(193年)、公孫瓚が大司馬の劉虞と対立しこれを殺害すると、劉虞の従事の鮮于輔・斉周・鮮于銀らが反乱を起こし、燕国の閻柔を烏桓司馬に推戴した。閻柔と鮮于輔は烏桓・鮮卑にも誘いをかけ、その勢力は漢民族・北方民族を併せて数万規模になったという。 閻柔と鮮于輔の軍は、鄒丹の軍と潞北で戦い、鄒丹は戦いに敗れて斬られた。没年は『後漢書』の記述等から判断して、興平元年(194年)と見て間違いないであろう。この戦勝をきっかけに閻柔と鮮于輔は、劉虞の子劉和と袁紹配下の麴義の軍と連携して、一時は公孫瓚を易京に追い込むことに成功している。 なお、鄒丹は小説『三国志演義』には登場しない。 == 参考文献 == *『後漢書』列伝63公孫瓚伝 *『三国志』魏書8公孫瓚伝 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鄒丹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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