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鄧晨 ( リダイレクト:トウ晨 ) : ウィキペディア日本語版 | トウ晨[とう しん]
鄧 晨(とう しん、? - 49年)は、中国の新代から後漢時代初期の政治家、武将。後漢草創期の功臣。字は偉卿。荊州南陽郡新野県の人。鄧家は2千石の高官の家柄で、曽祖父は揚州刺史の鄧隆、祖父は交阯刺史の鄧勲。父は豫章都尉の鄧宏。妻は光武帝(劉秀)の姉劉元。子は鄧汎、鄧棠。甥は鄧奉、鄧終。 == 事跡 ==
=== 反新挙兵と妻子の死 ===
鄧晨は劉元を妻とし、その弟である劉縯、劉秀兄弟と親交があった。ある時、劉縯、劉秀兄弟たちと宴会を開いたとき、預言書(図讖)を学んでいた蔡少公という者が、「劉秀」が天子になる、と述べた。臨席していた或る者が、国師公劉秀(光武帝とは別人。劉歆の改名後の名である)のことかと言ったところ、劉秀が戯れて「何故私ではないと分かるのですか」と言い、一同は大笑した。しかし鄧晨は、内心で喜んだという。その後、劉秀とその家族が、騒動〔『東観漢記』によれば、鄧晨と劉秀が車で出かけた際に、役人に出遭うも車より降りなかった。役人が怒るも、劉秀は江夏卒史と称し、鄧晨は侯家の丞と名乗り、詐称と見抜いた役人は罪に問おうとした。〕のため役人を新野に避けた際、鄧晨の家に住んだ。この時に鄧晨は、宛の宴会でのやり取りを話題にして、独り当に(天子に)応ずべきや、と劉秀が天子に相応しいのではと言うも、劉秀は笑って応えなかった。 地皇3年(22年)、劉縯らが舂陵軍を率いて反新のために挙兵すると、鄧晨は食客たちを率いて劉秀と棘陽(南陽郡)で合流した。しかし、同年末の小長安聚(南陽郡育陽県)の戦いで劉縯、劉秀らは新軍に敗北している。この時、鄧晨も妻の劉元と3人の娘を失い、さらに、鄧家の邸宅は新軍に破壊され、墓も焼き払われてしまった。鄧晨の宗族たちは、劉縯、劉秀兄弟への憤懣を口にしたが、鄧晨は劉兄弟を怨む素振りを一切見せなかったという。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トウ晨」の詳細全文を読む
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