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鄧 泰中(とう たいちゅう)は清末、中華民国の軍人。元々は滇軍(雲南軍)指揮官の1人で、後に孫文(孫中山)の側近となった。字は和卿。 == 事迹 == 鄧泰中は若年時代に日本に留学し、東斌学堂で学んだ。1905年(光緒31年)、中国同盟会に加入している。帰国後、新軍第19鎮排長に任ぜられた。1911年(宣統3年)、昆明重九起義(雲南辛亥革命)に参加している。1915年(民国4年)12月、護国戦争が勃発すると、鄧は護国軍第1軍第1梯団第1支隊長に任ぜられた。翌年、この時の軍功により旅長に昇進している。 1920年(民国9年)12月初めに、鄧泰中、楊蓁、金漢鼎らの雲南軍指揮官は、雲南軍の最高指導者である唐継尭に不満を抱き、秘密裏に集会を開いた。鄧は元々唐と同郷であり、私的にも関係は良好であった。しかしこの時に鄧が唐の打倒を決然と主張したことにより、会議では兵変の速やかな発動が決議されている。そして楊が、自身の上司である靖国軍第1軍軍長顧品珍に対して、軍を返して昆明を攻めるよう勧めた〔余応彬『黒紅門 滇系軍閥全伝』136頁。〕。翌年2月、顧、鄧、楊、金らは兵変を発動し、不意を衝かれた唐は香港へ逃亡、これにより顧が雲南を統治することになる。 同年、鄧泰中は孫文の下に転じ、援桂総司令に任命された。1922年(民国11年)、鄧は部隊を率いて陳炯明を討伐し、後に雲南軍の将領と連名で、孫文に広東へ戻って政権を掌握するよう要請する電文を打った。翌年4月から5月まで、陸海軍大元帥府高級参謀をつとめ、まもなく広州大本営軍政部次長に転じた。後に、四川宣慰使をつとめ,陸軍上将に昇進している。 1927年(民国16年)6月19日〔徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』2377頁による。『雲南辞典』622頁は「1928年」としている。〕、鄧泰中は国民政府代表に任命され、船に乗って九江へ向かった。しかし、船は南京の川面で日本の商船「南洋丸」と衝突して沈没、鄧は水死した。享年42。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トウ泰中」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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