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鄧 石如(とう せきじょ、男性、1743年 - 1805年)は、中国清朝中後期の最も傑出した書家・篆刻家である。書家としては篆隷に新しい境地を開き、碑学派の開祖とされた。また篆刻でも復古主義の旧習を打破し鄧派(新徽派・後徽派)の開祖となる。 初名を琰といったが、嘉慶帝の諱である顒琰を避けて字の石如を名とし、字は頑伯とした。号は古浣子、完白山人。安徽懐寧県集賢関の人。 == 略伝 == 父一枝は博学で書や篆刻をよくし、石如は幼少より篆刻を学んだ。しかし、家は貧しく科挙の学習に専念できず、餅餠や薪を売り歩いて家計の足しとした。やがて刻した印を各地に売り歩く放浪の生活が始まる。32歳頃に梁巘に才能を見いだされ、江寧の名家梅鏐に紹介される。梅家には金石・拓本が大量に所蔵されており、石如は30歳から8年間、ときに寄食してひたすら秦・漢の碑文の臨書に明け暮れた。最初の5年間は篆書に、次の3年間は隷書に専心したという。しかし梅家の家力が衰えたので石如は元の売書・売印生活に戻ることになった。歙県にて程瑶田と知りあい、儒学者金榜に紹介される。またこの頃に著名な学者張恵言と知遇を得ている。金榜のところに一年間、揮毫しながら寓居し、金榜の推薦を得て高級官僚の曹文植に会い、その才能を見いだされる。曹の要請で石如は北京に赴き、そこで劉文清・陸錫熊らの名士とまみえ、その書は大絶賛される。しかし、内閣学士にして文壇の大御所である翁方綱のところに寄りつかなかったので翁が激怒しこれに付和雷同するものが現れる。これは性格が清らかすぎて世俗にまみれることができず人付き合いが下手だったからとされる。加えて劉文清が失脚し、陸錫熊が急死すると北京に居られなくなった。再び曹文植の紹介で両湖総督の畢沅に招かれ幕客(私設秘書)となり、3年間寄寓した。しかし、ここでも銭坫・孫星衍などの文人たちと折り合いが悪く、51歳にして職を辞して放浪生活に戻った。石如が書家として一躍名を成したのは書論家包世臣との出会いが大きい。石如60歳のとき、鎮江にて28歳の包世臣と出会う。包世臣は石如の書に感激し、わずかの期間しか師事することができなかったが、生涯に亙り師と仰ぎ敬愛した。石如没後、「完白山人伝」を著し、さらに没後19年目に「国朝書品」を著し清代の書家の格付けを行い、石如の書を清朝第一と絶賛した。石如は当時あまり知られていなかったがこれにより一躍有名となった。この後にも康有為が石如を敬愛し、その著書の中で碑学派の開祖とした。 石如は生涯3度の結婚をしている。最初は18歳で同じ村の潘氏を妻としたがすぐに死別、次の妻は塩城の沈氏で二人の子を授かった。3度目は懐寧の程氏を娶った。沈氏との子である鄧伝密は父の衣鉢を継ぎ書に巧みであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トウ石如」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Deng Shiru 」があります。 スポンサード リンク
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