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鄭克ソウ : ウィキペディア日本語版
鄭克ソウ[てい こくそう]

鄭 克塽(てい こくそう、Zhèng Kè shuǎng, 1670年8月13日-1717年9月22日)は鄭成功の孫、鄭経の次男である。 幼名はと言い、人は秦舍と呼んだ。字は実弘で、晦堂と号した。
==生涯==
1681年、鄭経と陳永華が相次いで死去すると、重臣の馮錫範が鄭経の従兄弟達と組んでクーデターを起こし、監国鄭克𡒉を殺し、わずか十二歲の鄭克塽を延平郡王とした。
1683年清朝の水師提督施琅澎湖海戦において大いに鄭軍の艦隊を破り,澎湖諸島を占領すると、鄭軍の主将劉国軒は、台湾に逃げ戻った。馮錫範は遂に鄭克塽に清に降ることを勧めた。7月5日、馮錫範は鄭徳瀟に命じて、降表を書かせた。7月15日、馮錫範は、将である鄭克塽を施琅の元に送った。8月13日、施琅は台湾に入り、降伏を受け入れた。その後、鄭克塽は、北京に赴き、漢軍正紅旗に組み入れられ、海澄公〔『清史稿』では、「漢軍公」とあるが、「諸臣封爵世表」では「海澄公」としてあり、これが正しい。〕に封じられた。康熙四十六年(1717年),鄭克塽は病没した。爵位を継ぐ者はいなかった。
鄭克塽は、馮錫範の娘を娶り、鄭安福をもうけた。弟は鄭克挙である。鄭克塽の死後,その母の黄氏は、清朝に鄭家の財産を戻すことを要求したが,受け入れられなかった。
台湾の著名な詩人である鄭愁予は、鄭克塽の子孫である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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