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鄭克臧 ( リダイレクト:鄭克ゾウ ) : ウィキペディア日本語版 | 鄭克ゾウ[てい こくぞう]
鄭 克𡒉(てい こくぞう、Zhèng Kè zāng、1664年-1681年)は、鄭成功の孫、鄭経の庶出長男で、母親は陳昭娘である。幼名は欽と言い、人は欽舍と呼んだ。 ==生涯== 初、1661年に鄭成功が台湾を攻略した際に、長男の鄭経は廈門の留守を預かった。鄭経は乳母の陳昭娘と関係して、鄭克𡒉を産んだ。鄭克𡒉が生まれたときに、ある人が、昭娘が妊娠したように装い、某李姓の夫を殺して、その子供を連れて来た養育したのだと言っている。しかし、鄭経自らが鄭克𡒉の出生に立ち会っているので、このような話は信じることができない〔郁永和『裨海記遊』「陳烈婦伝」52頁〕。後、唐顯悦(鄭経の正妻の祖父)は鄭成功に報告し、「母子相姦」の名を加えて悪口を言った。激怒した鄭成功は、鄭経と陳昭娘と鄭克𡒉を殺したいだうが、鄭経は厦門の軍を指揮して人望があったため、厦門軍では鄭経を擁立して鄭成功に反抗する気配を見せました。ここでちょうど鄭成功が憂憤のうちに薨じた。 永暦28年(1674年)、鄭経が西征に赴くとき、陳永華は、東寧総制となり、台湾の留守を預かった。 永暦33年(1679年)4月、陳永華は、次のように意見を述べた。「お子は、年が十六になり、聡明で特出しております。よろしく、「君が行けば、すなわち守る」の典にしたがい、子の克𡒉を監国にされることを望みます。」鄭経は、これを許し、礼官の鄭斌を遣わして、命令を台湾にもたらし、鄭克𡒉を立てて監国とし、並びに監国世孫の璽を彫らせ〔夏琳『閩海紀要』61頁〕、鄭克𡒉に公文を批閲させた。 鄭克𡒉の人となりは剛毅で、果断であり、頗る鄭成功の雰囲気に似ていた。その上、彼は陳永華の娘婿であり、事務を決済するときには、陳永華の教導を受けていた。法によりすべてを決済するという事により、鄭氏宗室も例外ではなかった〔郁永和『裨海記遊』「陳烈婦伝」53頁〕。これにより、鄭氏宗室と馮錫範は、皆彼を嫌った。
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