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鄭松(てい しょう、、順平2年(1550年) - 永祚5年(1623年))は、後黎朝大越の権臣、東京鄭氏の第3代当主。後世、その強権と辣腕ぶりから曹操に例えられた。 == 生涯 == 初代当主鄭検の次男。正治13年(1570年)に父が死去すると、兄の鄭檜が家督を継いだ。鄭検の死を好機と見た北の莫朝は莫敬典(の三男)を将とした軍を南下させた。酒色に耽った鄭檜が大敗を喫すると、鄭松は鄭檜から当主の座を奪い、莫朝軍を撃退した。朝廷により長郡公・左相・節制各処水歩諸営に封じられた。嘉泰元年(1573年)には皇帝の英宗を殺害し、その第五子である黎維潭を擁立した(世宗)。 光興15年(1592年)、鄭松は莫朝の都昇龍を攻略、莫朝の皇帝・莫茂洽を殺害して南北朝時代を終結させた。この功績により、黎朝の実権は完全に鄭松により掌握された。光興22年(1599年)、朝廷から平安王に封じられ、「都元帥、総国政、尚父」を加号された。 同年に世宗が崩御するとその次男の黎維新を擁立した(敬宗)。弘定20年(1619年)、次第に権力を強大化させる鄭松を恐れた敬宗は、万郡公鄭椿(鄭松の次男)らを集めてクーデターを謀り、鄭松の乗った戦象を銃撃した。このクーデターは失敗に終わり、鄭松は敬宗を自縊に追い込んでその長男の黎維祺を擁立した(神宗)。 永祚5年(1623年)に鄭松が重病に陥ると、鄭椿が反乱を起こした。鄭松は輿に乗って昇龍を脱出したが、この機に乗じて権力を握ろうとした弟の鄭杜が途中で輿を投げ出すよう従者たちに言い含めていたため、鄭松は道端に打ち捨てられて生涯を終えた。 鄭杜は鄭椿を捕らえて殺し、鄭松の長男の清郡公も謀殺しようとしたが、先手を打った鄭は清華に逃れて神宗を擁し、叔父の鄭杜を討伐した。鄭松は死後朝廷から成祖の廟号を追贈され、恭正寛和哲大王と諡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鄭松」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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