翻訳と辞書 |
鄭灼[てい しゃく] 鄭灼(てい しゃく、514年 - 581年)は、南朝梁から陳にかけての儒学者。字は茂昭。本貫は東陽郡信安県。 == 経歴 == 梁の通直散騎侍郎・建安県令の鄭季徽の子として生まれた。幼くして儒学に志し、皇侃に学問を受けた。家は貧しく、筆が摩耗すると削って用い、つねに菜食して日夜に義疏を学んだ。経学に通じて、とくに三礼に明るかった。533年(中大通5年)、奉朝請を初任とした。員外散騎侍郎・給事中・安東臨川王府記室参軍・平西邵陵王府記室を歴任した。皇太子蕭綱が儒学を愛好していたため、鄭灼は召し出されて西省義学士となった。承聖年間、通直散騎侍郎となり、国子博士を兼ねた。まもなく威戎将軍となり、中書通事舎人を兼ねた。陳の武帝・文帝の代には、安東臨川王府諮議参軍・鎮北鄱陽王府諮議参軍を歴任し、中散大夫に累進して、本官のまま国子博士を兼ねた。581年(太建13年)、死去した。享年は68。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鄭灼」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|