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鄭燮 : ウィキペディア日本語版
鄭燮[てい しょう]

鄭 燮(てい しょう、康熙32年(1693年) - 乾隆30年(1765年))は、清代画家書家興化の人で、克柔(こくじゅう)、板橋(はんきょう)とした。書画すべてよくし、三絶の誉れ高い孤立独往の文人である。がもっとも異彩を放っており、その書風は各体混交の奇矯なもの。画は揚州八怪の領袖的存在とされる。
== 略伝 ==
揚州で書画を売りつつ科挙の受験勉強を続け、雍正10年(1732年)、挙人に及第し、乾隆元年(1736年、44歳)に進士の特別試験〔博学鴻詞科というもので、特にすぐれた学者を召し出すために行われた不定期の特別試験(比田井 P.284)。〕に合格して翰林院に入った。乾隆7年(1742年)に范県の知事として赴任し、同11年(1746年)には濰県の知事に転任した。当時から鄭燮の詩書画は有名で、赴任地で彼の書体が流行したといわれる。
乾隆18年(1753年、60歳)、濰県一帯が大飢饉にみまわれ、鄭燮は農民の救済に尽力したが、これが富豪や大官の恨みをかう結果となり失職した。そして、故郷の揚州に帰って友人の李鱓の別荘のそばに擁緑園(ようりょくえん)を構え、再び書画を売って暮らした。金農や李鱓らと詩書画を楽しんで余生を送ったという。乾隆24年(1759年)には自らの書画の潤例〔潤例(じゅんれい、潤格とも)とは、揮毫料一覧表のこと(鈴木洋保 P.200、松村 P.66)。〕を作り、「大幅は6両、中幅は4両、小幅は2両」とし、「支払いは現金がうれしい。うれしいから書画の出来もよくなる。」といい、評判になった。当時の揚州は塩の集散地として商業が発達し商品としての書画の需要が多かったのである。乾隆30年(1765年)、73歳で没した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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