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鄭文公碑(ていぶんこうひ)は、中国の南北朝時代、北魏の書家・鄭道昭によって永平4年(511年)に彫られた2つの顕彰文。高貞碑と並ぶ「六朝楷書」の書蹟として著名である。 天柱山と雲峯山の2ヶ所でほぼ同文が刻されており、被顕彰者・鄭羲の名と鄭道昭自身の呼称によって前者は「鄭羲上碑」(ていぎじょうひ)、後者は「鄭羲下碑」(ていぎかひ)と呼ばれる。 == 鄭羲と刻字の事情 == 被顕彰者である鄭文公=鄭羲は、作者である鄭道昭の父である。鄭氏そのものが名門貴族であったほか、鄭羲自身も正史『魏書』『北史』に「鄭羲列伝」として列伝を立てられており、碑の内容と合わせてみると相当の実力者であったことが知れる。 碑文によれば鄭羲は字を幼麟(ようりん)といい、没年から逆算すると泰常5(420)年に開封で生まれた。極めて聡明で高潔な人柄であったといい、和平年間(460年 - 465年)に孝文帝の養母である馮太后の信任を受けて中書令となり、やがて中書侍郎に昇進した。この頃、南朝の宋(劉宋)に使者として赴き、宴の際に演奏された音楽を聞いて劉宋王朝が遠からず滅亡することを言い当てたという。 その後も羲の躍進は続き、劉宋からの帰国後、給事中を兼任して皇室の文官・史官のトップに立つとともに、故郷の開封を治めるケイ陽侯(「ケイ」は「栄」の「木」を「火」に変えた字)の地位に着いた。続いて太和年間(477年 - 499年)に使持節安東将軍・督兗州諸軍事・兗州刺史(「兗」はなべぶたの下に「兌」)・南陽公に次々と任じられ、晩年には秘書監として活躍した。太和17(486)年、病により死去、享年67。同年4月24日にケイ陽近郊の三皇山に葬られた。 道昭がこの父・羲の顕彰碑を造ろうとしたきっかけは、永平3年(510年)頃光州(現在の山東省)の刺史(長官)となり、領内巡視の際に山々に次々と碑文を彫るようになったことにある。この際、鄭羲も一時光州刺史であったことがあったことを踏まえて父を顕彰しようと考え、天柱山の磨崖に顕彰文を刻んだ。これが「鄭羲上碑」である。しかし光州に帰る途中で立ち寄った雲峯山でさらによい磨崖を発見し、ここにも同文を刻んだ。これが「鄭羲下碑」であり、後に2つ1組として扱われる「鄭文公碑」が出来たのである。 なお、刻字の事情について「鄭羲が汚職まみれの人物であったため、その汚名をそそぎたいと刻んだもの」とする説があるが、真偽の程は定かでない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鄭文公碑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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