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鄭育秀 ( リダイレクト:鄭毓秀 ) : ウィキペディア日本語版 | 鄭毓秀[てい いくしゅう]
鄭 毓秀(てい いくしゅう)は清末、中華民国の女性革命家・政治家・弁護士・裁判官。別名は蘇梅。夫は、中華民国(台湾)の政治家・外交官である魏道明。 == 事跡 ==
=== 革命から留学まで === 父は戸部の官僚で比較的裕福な家庭であった。鄭毓秀は最初旧学を学んだが、後に天津教会崇実女子学校に入学した。1905年(光緒31年)、日本に留学し、留学中に廖仲愷の紹介で中国同盟会に加入している。1911年(宣統3年)に帰国すると、革命派による要人暗殺の任務に連絡員等として関わり、最初は袁世凱暗殺計画に加わった。しかし1912年(民国元年)1月の決行直前に同盟会北京分会の緊急の指示で中止し、標的を良弼に変更、その成功に貢献している〔同盟会上層部が、南北和平の成立を妨害していたのは袁世凱ではなく、良弼であると判断したためとされる。「」。〕。 同年中に、鄭毓秀は勤工倹学でフランスへ留学する。1914年、パリで法律を学び、後に法学修士の学位を取得した。1919年、パリ講和会議に出席した中国代表団が圧力に屈してヴェルサイユ条約に調印するとの憶測が流れると、代表団の随員となっていた鄭は調印日前日の6月27日に、留学生たち数百人を組織して首席代表陸徴祥の逗留先を包囲し、断固たる調印拒否を呼びかけた〔鄭毓秀は28日にも調印式に向かう陸徴祥の傍に歩み寄り、薔薇の枝を自身の服の下から陸に突きつけ、「調印するならば、この銃が貴方を許さないでしょう」と語りかけ、実際に陸は調印しなかったという(「」)。もっとも実際には、顧維鈞ら代表団内の多くの有力者が調印拒否を唱えていた上、中国国内の世論の高まりもあったことから、陸はすでに調印拒否の意向を固めていたと考えるのが自然である。〕。1925年、パリ大学法学博士の学位を取得したが、これは中国史上初の女性博士とされる。まもなく北京政府から駐欧調査委員に任ぜられてしばらく欧州に滞在後、同年中に帰国した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鄭毓秀」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tcheng Yu-hsiu 」があります。
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