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鄭 蘋茹(てい ひんじょ、。1918年 - 1940年2月)は中華民国の特務・スパイ。 == 事跡 == 1918年(民国7年)、浙江省蘭渓市に生まれた。父・鄭越原は孫文を慕って中国同盟会に参加した事があり、母は日本人だったこともあって、早くから日本に対して、親近感を抱いていた。1932年~1934年にかけて上海の明光中學(民光中學とする説もある)に在籍。ここで、後に自身の運命を決定づける人物となる、丁黙邨(当時中學の校長であり、彼女に好意を抱いて個人授業をした程の仲だった)と出会う。 美貌でしなやかな肢体を持っていたと言われ、上海のグラビア雑誌『良友画報』の表紙を飾った事もあった。やがて自身の容貌を生かして、抗日運動に身を投じ、その過程で近衛文隆(近衛文麿元首相の長男)と知り合って恋仲となり、結婚寸前まで行った。しかし、1939年6月4日に駆け落ち(実態は近衛の暗殺)が失敗すると、危険を察知した大日本帝国陸軍幹部は近衛を日本に送還(その後、満州へ召集令状が出された)し、二人の恋はあっけなく破局した。 失意の鄭に、今度は汪精衛から重大な命令が下る。それは、汪と敵対する特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者となっていた、丁黙邨を暗殺せよと言う物であった。鄭は大胆な方法で丁に近づき、丁も油断して彼女と接近したため、暗殺計画は成功にしたかにみえた。だが1939年12月21日、丁の暗殺を遂行するも、事前に計画が露見し、更に鄭自身が、かつての恩師を暗殺する事をためらった事も手伝って、暗殺は失敗に終わった。そして、浅はかにも丁が所属していた特工総部を直接訪れ、そこで構成員の林之江に捕らえられ、監禁された。 1940年2月の春節前、林らによって上海郊外の滬西区中山路に連行され、銃殺された。享年22。 没後、彼女の悲劇と数々のロマンスは、多くの小説・映画のモデルとなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鄭蘋茹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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