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鄭 観応(てい かんおう)は、清末から中華民国初めにかけての思想家・実業家。別名は官応。字は正翔、号は陶斎、羅浮待鶴人、慕雍山人、杞憂生など。洋務運動期の清の近代企業設立や経営に携わった。 == 事跡 == 広東省香山(現在の中山市)出身。読書人の父から教育を受け童試を受けるが失敗し、父から上海に行き商売を学ぶように命じられる。1860年、イギリス資本のデント商会で働き、英語を学んで西洋の政治と経済について理解を深めた。1874年、スワイヤー・グループが太古輪船公司を設立するのに関わった。1880年に『易言』を著し、西洋から商業を学び、立憲君主制を採用するように提言した。同年、直隷総督李鴻章から上海機器職布局と上海電報局の総裁に任命される。1883年には輪船招商局の総裁に昇進したが、翌年に辞任した。辞任後はマカオに閑居して『易言』の改訂に専念し、その成果は後に『盛世危言』としてまとめられている。1891年に開平煤砿局総裁に起用され、翌年には再び輪船招商局総裁となった。中華民国成立後は、教育事業に力を注いだ。 category:清代の人物 い かんおう 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鄭観応」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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