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酒井 忠世(さかい ただよ)は、江戸時代初期の大名。江戸幕府の老中、大老。上野那波藩主、伊勢崎藩主を経て厩橋藩2代藩主。雅楽頭系酒井家宗家2代。 後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊とともに家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている。 == 略歴 == 酒井重忠の長男として三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に生まれる。徳川家康に仕え、天正16年(1588年)には後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉、天正18年(1590年)1月に家康の継嗣・秀忠が豊臣秀吉に初見目した際に腰物役を務める。家康が関東へ入部すると父の重忠とは別に加増され、武蔵国川越城主となる。以後は秀忠に付き、秀吉の朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは6月の会津征伐、7月に第二次上田合戦に従う。 慶長10年(1605年)に将軍職を譲られた秀忠付きの筆頭年寄となり、慶長12年(1607年)7月には駿府城へ移った家康を賀し、雅楽頭に任じられる。大坂の陣では秀忠の旗本を務める。元和3年(1617年)7月、父重忠が死去して遺領の厩橋3万3千石を継ぎ、それまでの領地と併せて8万5千石となる。元和9年(1623年)、秀忠の嫡子である竹千代(徳川家光)の世継が確定すると、家光付きの家老のうち死没していた内藤清次の席を埋めるかたちで、従弟の忠勝とともに家光付きの年寄衆に加わる。なお、秀忠付きの年寄は井上正就と永井尚政によって埋められた。 寛永9年(1632年)5月に松平康長の後任として西の丸留守居となり、江戸城大橋外から家臣を引き連れて旧秀忠屋敷である西の丸へ移る。7月に家光が増上寺へ詣でた際に中風を起こして倒れ、家光から養生を命じられる。幕政には復帰しているが、寛永11年(1634年)6月、家光が30万の大軍を率いて上洛した際に、7月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は報をうけた家光の命により寛永寺に退去し、失脚する。徳川御三家からの赦免要請もあり、寛永11年12月には登城が許され、翌12年2月に家光は忠世を面謁、5月には西の丸番に復職するが、老中職からは退けられた。65歳で没。 後を継いだ長男の忠行もその8か月後に後を追うように亡くなったため、嫡孫の忠清が家督を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「酒井忠世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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