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酒井 忠清(さかい ただきよ)は、江戸時代前期の譜代大名。江戸幕府老中、大老。上野厩橋藩第4代藩主。雅楽頭系酒井家宗家4代。第4代将軍徳川家綱の治世期に大老となる。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世の孫にあたる。 == 生涯 == === 出生から老中時代 === 寛永元年(1624年)10月19日、酒井忠行の長男(嫡出長子)として酒井家江戸屋敷に生まれる〔福田(2000)、p.1〕。幼少期は不明であるが、酒井家江戸屋敷で育てられたと考えられている〔福田(2000)、p.2〕。 寛永7年(1630年)1月26日には将軍・家光が忠清の祖父・忠世邸に渡御しており、忠清も初目見して金馬代を献上し、家光から来国光の脇差を与えられている〔福田(2000)、p.2〕。『東武実録』によれば、さらに1月29日には大御所・秀忠が同じく忠世邸に渡御し、このときも忠清が初目見し太刀馬代を献上し、国俊の脇差を与えられている〔福田(2000)、p.2〕。寛永9年12月1日には江戸城に初登営し、弟の忠能とともに将軍家光に謁見している〔福田(2000)、p.2〕。 寛永13年(1636年)3月19日には祖父・忠世、同年11月17日には父・忠行が相次いで死去する〔福田(2000)、p.2〕。翌寛永14年(1637年)1月4日に遺領12万2,500石のうち上野厩橋藩10万石の相続を許され、同日には弟の忠能にも上野伊勢崎藩を分地された〔福田(2000)、p.2〕。 寛永15年(1638年)に出仕し、従五位下・河内守に任じられる。雅楽頭家嫡流として父の忠行が務めていた奏者番を命じられ、武家故実を習得して殿中儀礼の諸役を務める。この年には忠能と共に上野へ初入国をしている。なお、同年には土井利勝と酒井忠勝が大事の折の登城を命じられ、これが後の大老の起こりとされる。 寛永18年(1641年)には3代将軍・徳川家光に嫡子・家綱が誕生。忠清は家光付きの本丸付家臣であり、幼少の家綱との接触は儀礼を通じてのみであったが、忠能は家綱付の家臣団に加わっている。正保元年(1644年)12月には松平定綱の娘・鶴姫と婚礼、慶安元年(1648年)には長男の忠明が生まれるが、鶴姫は慶安3年(1650年)に死去。慶安4年(1651年)4月には家光が死去し、8月には家綱が将軍宣下を受ける。大老・酒井忠勝、老中・松平信綱や後見の保科正之、家綱付家臣団の松平乗寿らに補佐された家綱政権が成立し、忠清は引き続き奏者番を務め、10月には左近衛権少将へ任官し、雅楽頭へ改名を命じられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「酒井忠清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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