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酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ、生薨年未詳)は、飛鳥時代の皇女である。『法王帝説』にも須加氐古女王(すかてこのひめみこ)とあるが、『古事記』は須賀志呂古郎女(すがしろこのいらつめ)と書く〔『古事記』は原資料に「テ」を「代」と書いていたのを「シロ」と誤読したものであろうとされている。〕。用明天皇の皇女で、母は当麻倉首日呂(たぎまのくらのおびと ひろ)の女、飯女之子(いひめのこ)とも(『古事記』。『帝説』は葛城当麻倉首比里古(かづらきのたぎまのくらのおびと ひろこ)の女、伊比古郎女(いひこのいらつめ)と書く)、葛城直磐村(かづらきのあたひ いはむら)の娘、広子(ひろこ)とも言われ(『日本書紀』〔今度は逆に『書記』が、父の名「ヒロコ」を娘の名と取り違えたものとされるが、当麻倉首氏と葛城直氏の関係は不明。〕)、同母兄に当麻皇子がいる。ちなみに聖徳太子は異母兄に当たる。 『書紀』用明天皇紀によると、用明天皇が敏達天皇14年(585年)9月5日(新暦10月3日)に日本国の第31代天皇に即位すると、斎宮として伊勢神宮に遣わされた。なお『書紀』の分注には、用明天皇の崩御後も引き続き斎宮を務め、推古天皇の時に退下して葛城の地で薨じたと伝え〔普通は父帝の崩御とともに服喪の意味を込めて退下するので、本居宣長は「古(いにしへ)に服(服喪のこと)と云事無かりしを知べし」と説いている(『記伝』)。なお、薨去の地を葛城とするのは、『書記』において生母を葛城直の女とすることと関係があろうとされる。〕、また「或本云」として、斎宮を務めた期間は37年間であるとも伝える。後者に従えば、斎王退下は推古天皇29年(621年)、もしくは30年(622年)となる。 ==系譜== *父:用明天皇 *母:飯女之子(当麻倉首日呂の女)・または広子(葛城直磐村の女) *同母兄:当麻皇子 *伯叔父:敏達天皇・崇峻天皇 *叔母:推古天皇 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「酢香手姫皇女」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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