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醍醐(だいご)家は、清華家の家格を有する公家。五摂家の一つ一条家の支流。 江戸時代前期一条昭良の二男・冬基を祖に創立された。家禄は、312石。家紋は下がり藤。 == 江戸時代の動向 == 延宝7年(1679年)に従三位左近衛中将となり公卿に列した一条兼遐(昭良)の二男・冬基が、同年、冬基の従兄弟にあたる霊元天皇から「醍醐」の家名を下賜され、一条家から分家して創始された。家禄は、312石。通字は特に決まっていないようだが、「冬」「兼」「輝」などが見られ、幕末以降は「忠」で一定しているようである。 後述の系図を見ての通り、昭良は後陽成天皇の第九皇子であり、天皇家の血筋を男系で引き継いでいる。途中、第3代当主の兼潔は、初めはなかなか子に恵まれず、本家の一条家より兼純を養子に迎えていたが、やがて実子の冬香、輝久が誕生。兼純が早世したこともあって、冬香、輝久が当主となった。また、嗣子を亡くしたり、スキャンダルが起きたりなどで、再び当主の座に就く者も見られるが、何とか血脈が絶えることなく、天皇家の男系子孫としては現在に至るまで続いている。これは、度々他家からの養子を迎えている本家の一条家とは異なり、途中養子を介していない。 醍醐家が明治維新までに輩出した公卿の数は 8名。うち太政大臣まで昇った者 0名(なし)、左大臣まで昇った者 1名(2代冬熙)、右大臣まで昇った者 1名(3代経胤)、内大臣まで昇った者 1名(7・9代輝弘)、大納言まで昇った者 3名(初代冬基、6代輝久、10代忠順)、中納言まで昇った者 2名(4代兼純、5代冬香)である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「醍醐家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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