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釈契沖 ( リダイレクト:契沖 ) : ウィキペディア日本語版 | 契沖[けいちゅう]
契沖(けいちゅう、1640年(寛永17年) - 1701年3月4日(元禄14年1月25日))は、江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。 ==経歴== 摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた。釈契沖とも。俗姓は下川氏、字は空心。祖父下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父元全(もとたけ)は尼崎藩士から牢人(浪人)となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざるを得なかった。 契沖は、幼くして摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の(かいじょう)に学んだ後、高野山で阿闍梨の位を得る。ついで摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となり、その間下河辺長流と交流し学問的な示唆を受けるが、俗務を嫌い畿内を遍歴して高野山に戻る。室生寺では命を捨てようとしたこともある。その後、和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行った。1678年(延宝6年)妙法寺住持分となった後、晩年は摂津国東成郡東高津村(現在の大阪市天王寺区空清町)の円珠庵で過ごした。 『万葉集』の正しい解釈を求める内に、当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、歴史的に正しい仮名遣いの例を『万葉集』、『日本書紀』、『古事記』、『源氏物語』などの古典から拾い、分類した『和字正濫抄』を著した。これに準拠した表記法は「契沖仮名遣」と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「契沖」の詳細全文を読む
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