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里見義康 : ミニ英和和英辞書
里見義康[さとみ よしやす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [り]
 【名詞】 1. ri (old measure) 2. 2. 44 miles 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 

里見義康 : ウィキペディア日本語版
里見義康[さとみ よしやす]

里見 義康(さとみ よしやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名里見義頼の長男。安房館山藩初代藩主。
== 生涯 ==

=== 織豊時代 ===
天正元年(1573年)、安房国の大名・里見義頼の長男として誕生。
天正15年(1587年)、父・義頼の死により家督を相続する。天正16年(1588年)11月に父に引き続いて、増田長盛取次のもとで豊臣秀吉に音信を通じ、安房国・上総国両国および下総国の一部を安堵された。
しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐で秀吉の怒りに触れた結果、上総・下総の所領を没収され、安房4万石(差出検地による石高)に減封された。原因については従来は遅参とされていたが、近年では里見氏が庇護していた小弓公方足利義明の遺児頼淳を擁して、北条氏によって奪われた旧領回復の好機とし、三浦へ渡海進軍し、鎌倉公方家再興を標榜し独自の禁制を発したことが、私戦を禁じた惣無事令違反に問われたと考えられている〔市村高男「豊臣政権と房総―里見分国上総没収をめぐって―」(『千葉県史研究』2号、1994年)〕。なお、この件を仲介したのが徳川家康であり、これ以降、里見氏は徳川氏に接近する。徳川家康は義康に里見家と徳川家は新田氏を祖とする同族であり親戚だと思っているといった内容「殊一性之儀二候間」の起請文を送っているが、この古文書は滝川恒昭により偽文書の可能性が指摘されている〔滝川恒昭「里見氏にあてた家康の起請文」(『季刊ぐんしょ』58号、2002年)、後に滝川恒昭編『房総里見氏』(戎光祥出版、2014年10月)に収む〕。
その後に上洛し、羽柴姓を許され、安房守・侍従に叙任して「羽柴安房侍従」と称された。〔村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、29頁。〕
天正19年(1591年)には館山城を改修し、近世につながる城下町を開いた。文禄元年(1592年)の文禄の役では、家康に随行して肥前名護屋城に滞陣した。慶長2年(1597年)の太閤検地により、石高は9万1千石に高直しされる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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