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重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938年11月30日)は、日本の画家で、左翼運動家。愛媛県松山市生まれ。 == 経歴 == 旧制松山中学校に入学。松山時代、雑誌『白樺』の影響を受けて芸術家志望の若者らと文芸や絵画の回覧雑誌『楽天』を発行。伊丹万作、伊藤大輔、中村草田男らと同志であった。また、後に映画監督となる山本薩夫の実兄でのちの建築家・山本勝巳もメンバーで、大学中退後の山本を伊藤に推薦し松竹に入れたのは重松であった。 松山中を中退して上京。岸田劉生に心酔、影響を受け、春陽会、国画会に入選。1926年、東京府美術館での同館開館記念「第1回聖徳太子奉賛美術展」に、代表作となる「閑々亭肖像」を招待出品するなど活躍した。 中学同級生でグループ共通の友人だった白川晴一〔後の日本共産党東京都委員長〕の影響も受け、1931年日本共産党に入党。東京市委員会などで活動し、後に党関西地方委員会責任者となった。1933年秋、姫路連隊の出征兵士へ反戦ビラを配布し〔「花へんろ」に出てくる重松鶴之助とは? 「しんぶん赤旗」2005年2月23日〕同年12月に逮捕。検挙、7年の刑を受け投獄されつつ、非転向を貫いた。 満期釈放される朝、堺市の大阪刑務所で自殺。「背後関係に就いては遂に一語をも吐かず、…階上の訊問室から石畳に身を投じて自ら命を絶ったと伝へられた」と伊藤は書いている。また、増山太助『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社、2000年)は「何のために自殺したのか、その原因は未だに不明なままである」としている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「重松鶴之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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