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【名詞】 1. chief vassal 2. senior statesman =========================== ・ 重 : [おも] 1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important ・ 重臣 : [じゅうしん] 【名詞】 1. chief vassal 2. senior statesman
重臣会議(じゅうしんかいぎ)は、昭和戦前・戦中期の日本において、後継の内閣総理大臣の選定や国家の最重要問題に関しての意見具申を行った会議。天皇の諮問に答える形で、必要に応じて内大臣が召集し主宰した。構成員は、重臣と呼ばれた内閣総理大臣経験者と枢密院議長で、これに主宰者の内大臣が加わった。最後の元老・西園寺公望の最晩年からその元老としての機能を引き継ぐ形で始まり、戦後に内大臣府が廃止されるまで度々開催された。 == 沿革 == 明治以後、内閣総理大臣の選定は元老によって行われてきたが、大正時代末期には元老が西園寺公望ただ一人となった。元老の補充には山本権兵衛などが候補に擬せられていたが、将来を考える内大臣の牧野伸顕の助言に対して、西園寺は古い元老制度を廃止して、憲政の常道に従った機械的な首相後継制度を意図していたため、あえて元老の追加には同意しなかった。このため五・一五事件による政党内閣の崩壊と軍部の台頭、自身の高齢化によって西園寺単独による後継選定は不可能な状態となった。そこで、昭和8年(1933年)に西園寺を助ける目的で重臣制度が設けられて、総理大臣経験者と枢密院議長が元老西園寺とともに会議を開いて後継選定を図ることにしたのが始まりである。(五・一五事件後の後継首相奏薦にあたっても元老は首相経験者から意見を聴取しているが、正式な手続きとして定められたものではなかった)。 しかし、二・二六事件による岡田内閣総辞職の際には重臣会議は開催されず、阿部内閣成立時までその形式が続いている。米内内閣成立の際は内大臣が一部の重臣から意見を聴取しており、米内内閣総辞職の後に再び重臣会議が開かれるようになった。 昭和15年(1940年)11月の西園寺の死後は内大臣が重臣会議を招集して、重臣達に対して後継総理大臣の選定などを諮問する形式へと変更されることになった。昭和20年(1945年)4月の小磯内閣総辞職の時までこの形式が継続した。同年8月15日に次の鈴木貫太郎内閣が総辞職した際と、10月9日に次の東久邇宮内閣が総辞職した際には、終戦直後の混乱期ということもあって重臣会議は招集されず、代わりに木戸幸一内大臣と平沼騏一郎枢密院議長の二人のみによる形式上の会議によって後継首班が選定された。そして同年11月24日に内大臣府が廃止されると、主宰者を失った重臣会議もここに自然消滅するに至った。このため次の幣原内閣が昭和21年(1946年)5月に総辞職した際には、幣原本人が前任者として後任者を選定しこれを奏薦するという形式がとられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「重臣会議」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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