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野中 寿人(のなか かずと、1961年6月6日 - )は、東京都大田区出身の野球指導者。2度にわたって野球インドネシア代表監督を務める。 ==来歴== 高校時代は日本大学第三高等学校のキャッチャーとして、1979年の第61回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に出場〔イ野球の歴史変えた 野中寿人さん - じゃかるた新聞2013年9月28日〕。プロ野球からの勧誘を断って大学に進んだが、意中の進学先だった明治大学ではなく日本大学であったことや大学での指導方法に不満を持ち、1年生で休部〔〔野球インドネシア代表監督・野中寿人さん - NNA.ASIA(2009年7月16日)〕。3年生時に復帰するものの、プロ野球選手への道は断念した〔。1984年に日本大学を卒業し、1987年にフィリピンに渡って実業家となるも、現地でのトラブルから帰国を余儀なくされる〔〔。2001年にインドネシア連邦共和国のバリ島へ移住し、現地で出会った女性と結婚した〔〔。 2003年に地元の青年たちと野球チームを結成し、学生時代以来の野球活動を始めた〔。2005年にリトルリーグチーム「レッドソックス」を設立〔、翌年の2006年には硬式クラブチーム「バリ・レッドソックス」も発足させた〔。この活動から日本人初のバリ州代表チームの監督に抜擢され2007年1月に開催されたインドネシア高校国体にバリ州代表チームを率いて参戦、4位となる〔。 このときのチーム編成と戦略がインドネシアアマチュア野球連盟から評価され、2007年4月に外国人初となる野球インドネシア代表の監督に就任〔〔。同年12月、タイ王国で開催された第24回東南アジア競技大会へ出場、銅メダルを獲得。 2009年5月には第8回アジアカップに参戦し初優勝、インドネシア野球史上初となる国際大会で金メダルを獲得〔。この優勝により同年7月に成田市で開催された第25回アジア野球選手権大会成田ラウンドに出場〔。アジア内ランキングを7位に浮上させた。 2014年5月、インドネシアアマチュア野球連盟より依頼を受け、野球インドネシア代表監督に再び就任。2015年年5月に「地元」であるジャカルタで開催された第11回東アジアカップでは決勝戦に駒を進めたが、フィリピンに0-10で敗れ、準優勝であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野中寿人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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