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野口 明(のぐち あきら、1917年8月6日 - 1996年10月5日)は、日本の野球選手。プロ野球・中日ドラゴンズの監督も務めた。明、二郎、昇、渉とプロ野球選手を輩出した野口四兄弟の長兄。 アマチュア、プロの両方の公式野球で延長試合の最長を記録した試合に出場した唯一の野球選手である。 == 来歴・人物 == 愛知県出身。中京商業学校(現・中京大学附属中京高等学校)に進学し、野球部に入部。この頃、中京商野球部は戦前の全盛期を迎えていた。野口は3年生で正捕手の座を獲得し、第10回から第12回選抜中等学校野球大会、第19回全国中等学校優勝野球大会に出場した。このうち、第19回全国中等学校優勝野球大会では吉田正男とのバッテリーで夏の甲子園3連覇を達成した。特に準決勝における明石中との延長25回の死闘では、吉田の336球を最後まで受け切った。 明治大学に進学したが、1936年に日本職業野球連盟の発足に伴い結成された東京野球協会(東京セネタース)の選手として引き抜かれ中退し、投手兼捕手の中心選手となった。4月29日の第1回日本職業野球大会開幕戦の対阪急戦に先発登板し勝利投手となった。 1937年春のシーズンは19勝7敗の成績でチーム勝利数(30勝)の6割以上を稼ぎ、同年秋は15勝(15敗)で西村幸生、ヴィクトル・スタルヒンと並び最多勝利のタイトルに輝いた〔年度別成績 1937年 秋 〕。1938年から1941年は兵役に服し、1942年に大洋軍(東京セネタースの後身)に復帰し5月24日の対名古屋戦で一塁手を務めプロ野球記録である延長28回を達成し、アマ、プロ両方で延長戦記録達成に出場した唯一の野球選手となった。 その後は主に一塁手としてプレイした。1943年シーズンでは打点42で青田昇と共に最多打点のタイトルを獲得した〔年度別成績 1943年 〕。同年シーズン終了後に大洋軍が改名した西鉄軍が解散したため阪急に移籍した。阪急では本格的に野手に転向したが、1948年に7試合だけ登板している(0勝1敗)。 1948年シーズン終了後に中日に移籍し、再び捕手になった。1951年と1952年にはベストナインに捕手として選出された。1954年には中日球団初の日本一に貢献した。 1955年に中日の選手兼任監督に就任したが、選手としてはこの年に2試合に出場したのみだった。1956年シーズン終了後に引退、退団した。 引退後は中日球場(現・ナゴヤ球場)に程近い名古屋・尾頭橋で喫茶店「シーエヌ」(店名の由来は中日移籍時の同ユニフォームの文字が「C」と「N」の組み字だったことから)を開店していた。 1996年10月5日に肺がんのため死去〔『朝日新聞』1996年10月7日付朝刊 (14版、35面)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野口明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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