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野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1903年(明治34年)6月17日 - 1944年(昭和19年)7月5日)は、日本の洋画家。滋賀県出身。 == 生い立ち == ;略歴〔「ユニパルスコレクション野口謙蔵 図録」(梅野記念絵画館・ふれあい館 2002年)〕〔「野口謙蔵展 生誕100年記念 蒲生野を愛した画家」(野口謙蔵画 滋賀県立近代美術館・京都新聞社編 滋賀県立近代美術館 2001年)〕〔「近江の画人たち P136 野口謙蔵」(石丸正運 サンブライト出版 1980年)〕 1903年(明治34年)6月17日、野口謙蔵は滋賀県蒲生郡桜川村綺田(現東近江市綺田町)で造酒業を営む裕福な家の次男として生まれた。父は桜川村初代村長を勤めた野口正寛、母は近在の素封家岡崎銀兵衛の娘で屋恵と言った。祖父野口正忠は美術愛好家で漢詩家、柿村と号し滋賀・京都の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は正忠との交遊から長く野口家に居候をしていた。伯父(野口正忠の長男)野口正章の妻野口小蘋は明治時代の人気女流画家であり、謙蔵は一流の画家・美術品に囲まれて育ち、幼い頃から絵を描くことが好きだった。 桜川尋常小学校に入学した謙蔵は色白で病弱から学校を欠席することもあったが、成績は優等で、特に読み方とつづり方が優れていたと伝えられている。1914年(大正3年)滋賀県立彦根中学校に入学し親元を離れ下宿生活を行い、社交的でありながら成績は常に十番以内であった。1917年(大正6年)陸軍大演習が滋賀県で行われた際には、彦根中学が明治天皇行幸の大本営となり、謙蔵が描いた水彩画「彦根城山大手橋」が天皇のお持ち帰りとなった。なお彦根中学では前田夕暮の門人米田雄郎(蒲生郡桜川村石塔の極楽寺の住職)に出会い、自然を愛する米田の影響を受け謙蔵は絵画研鑽を決意した。1919年(大正8年)東京美術学校西洋画科に入学し、従姉に当たる野口小蕙(野口正章・小蘋の娘)宅から通った。美術学校では黒田清輝、後に和田英作に師事し、和田からは終生指導を受けた。1924年(大正13年)東京美術学校を卒業し、故郷の風物が自身の画風確立に適していると信じる謙蔵は迷うことなく故郷蒲生に帰郷した。 美術学校卒業後、謙蔵は毎年帝展(帝国美術院展覧会(現日本美術展覧会))を目指し大作を作成したが自身の洋画に違和感を持つに至り、平福百穂の門に入り日本画の勉強を始め、一時期は洋画を一切省みることもなかった。その様な中で自分なりの洋画へのヒントを得たのか、1928年(昭和3年)第9回帝展で「庭」が初入選を果たし、以降第10回「梅干」・第11回「蓮」が連続入選し、1931年(昭和6年)第12回帝展で「獲物」・1933年(昭和8年)第14回帝展で「閑庭」・1934年(昭和9年)第15回帝展で「霜の朝」(現在謙蔵の代表作として東京国立近代美術館に収蔵)が連続して特選を受賞した。帝展が新文展(文部省美術展覧会)に名称変更した後も出品を続けた。なお、その間東光会展・槐樹社展にも出展、1933年(昭和8年)に開催された第1回東光会展には「けし」を出品、以降東光会展・槐樹社展にも出品を続けた。なお、新文展では審査委員として運営にも係わった。 1944年(昭和19年)43歳で死去する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野口謙蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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