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天野 久(あまの ひさし、1892年1月5日 - 1968年2月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。公選第2代山梨県知事。 == 来歴 == === 出生から初の県人知事へ === 現在の山梨県甲州市塩山下於曽の出身〔雨宮(2006)、pp.430 - 431〕。生家は江戸時代には村役人を務める〔雨宮(2006)、pp.430 - 431〕。高等小学校卒業後に上京し、官費の逓信講習所(現在の電気通信大学)入学を望むが果たせずに帰郷し、1911年(明治44年)に下於曽で、政友会代議士でもある田辺七六の経営する田辺酒造店に奉公する〔雨宮(2006)、p.431〕。後に北都留郡笹子村(現・大月市笹子町)で笹一酒造を創業し〔後に甲州戦争と呼ばれる田辺一派との激しい抗争に発展した。〕、山梨県酒類販売連合会会長などを務める〔雨宮(2006)、p.431〕。また、笹子郵便局長を兼ねていた〔雨宮(2006)、p.431〕。 1946年(昭和21年)12月には戦後初めての第22回衆議院議員総選挙が行われるが、第22回総選挙では前回当選した代議士のうち今井新造、高野孫左衛門らは戦争協力を理由に出馬を辞退し、進歩党総務の田辺七六と旧民政党系で富士山麓電気鉄道社長の堀内一雄が公職追放のため出馬が不可能となっていた。 こうした状況のなかで田辺は無産勢力の進出に対抗するため候補者の擁立をはじめ、郡内代表で大月郵便局長の志村信らに推された天野が候補者に擁立された。天野は政治経歴皆無であったが、日本進歩党から立候補し、第22回総選挙で進歩党は天野を含め4人を公認し、日本自由党や社会党、共産党、無所属など32人の候補が乱立するが、4月10日の投票で、天野は社会党の平野力三に次ぐ2位で当選した〔なお、選挙では以下、日本自由党の樋貝詮三、無所属の笠井重治、社会党の松沢一が当選。〕。以来連続3期当選を重ねる。この間に芦田内閣で建設政務次官を務めた。 1951年(昭和26年)4月の統一地方選挙における第2回山梨県知事選挙を控えた県内では現職の吉江勝保の対抗馬を探し、民主党県議会議員の星野重次、社会党議員の丸山三郎、労働組合幹部の竹中英太郎らは天野に対して出馬を打診を受し、同年3月12日には県政刷新連盟(刷新連)が結成される。 当時、中央政界では1950年(昭和25年)6月の朝鮮戦争勃発後、民主党は民自党の第2次吉田内閣への連立を巡り党内が分裂しており、連立派に属していた天野はこの時点で保革連合による知事選出馬を留保していたが、同3月16日に出馬を決定する。 天野の出馬により民主党県議団は分裂し、民主自由党・民主党の一部は吉江を支持し、社会民主党の平野力三や松沢一らと反共民主連盟を結成し、知事選は刷新連対反共民主連盟の対立構図となった。 1951年4月に実施された第二回山梨知事選において、天野は県政民主化を主張して22万1509票を獲得し、吉江を5万票差で破って初当選し初の県人知事となる。また、同時に行われた山梨県議会選挙で民主党9人、社会党5人、山梨県教職員組合推薦議員5人、無所属5人の24人で県議会の与党「新政会」を結成し、吉江派の野党「政和会」と対峙した〔有泉(2006・①)、p.577〕。 4期16年勤めた。天野は当選後に人事の刷新を行い、副知事には財界人の小林中らが推す郵政省簡易保険局長・金丸徳重を抜擢した。 1955年(昭和30年)の二選目では社会党陣営が副知事の金丸徳重、前代議士の小林信一の候補者一本化に手間取り、天野が圧勝する。 1959年(昭和34年)の三選目では保守陣営の反天野派が山梨日日新聞社社長の野口二郎の擁立を試みるが失敗し、小林信一が対抗馬として立候補した。 1963年(昭和38年)の四選目では天野派であった山梨県農協中央会長の星野重次が立候補を表明したことにより保守陣営が分裂するが、社会党陣営が独自候補として金丸徳重を擁立したため反天野派は共倒れとなり、かろうじて当選を果たした。 1967年(昭和42年)の知事選では5期目を目指したが、国政から転身した田辺国男(七六の子)〔後に田辺は天野の息子・建が山梨県知事選挙に立候補した時は全面的に支援した。〕に敗れた。 1968年2月15日に死去。76歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天野久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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