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野村忍介(のむらおしすけ、弘化3年(1846年) - 明治21年(1888年)は江戸時代末期(幕末)の薩摩藩士、明治の陸軍軍人、警察官である。 == 経歴 == === 薩摩藩 === 弘化3年(1846年)、折田清太夫の第2子として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(のちの鹿児島市常盤町)に生まれる。名は朝雄、幼名は亀次郎という。十郎太、斎蔵、のちに忍介と改名する。本姓は加世田氏。加世田氏は弟の矢八(景国)が継ぎ、忍介は母方の実家である野村家の養子となり野村家を継いだ。 幼年の頃には大山後角右衛門に大刀流剣術を学び、15歳のときに深見休八に真影流を学んだが合わず、薬丸半左衛門の門弟となり薬丸流を修めた。また、砲術は青山愚痴に天山流砲術(同門に野津鎮雄)を習い、書と和歌を是枝生胤に学んだ。 後に慶応年間には京都詰となり市中見廻りの折、衝突した他藩士2名を斬ったとされ、剣の腕はかなりのものがあったものと思われる。 戊辰戦争のときは、城下四番小隊(隊長は川村純義、監軍は永山弥一郎)の分隊長として鳥羽・伏見の戦いに参戦した。次いで東山道軍が大垣、池上、内藤新宿を経て白河に進撃すると、これに続き四番小隊の小隊長として有数の激戦であった白河攻防戦で戦い、白河城陥落後は棚倉に転戦した。会津若松城に進撃する際は、川村指揮の下で十六橋の戦いに勇戦、後に会津若松城包囲戦に参戦し軍功を挙げた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野村忍介」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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