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野村文夫 : ミニ英和和英辞書
野村文夫[のむら ふみお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

野村文夫 : ウィキペディア日本語版
野村文夫[のむら ふみお]

野村文夫(のむら ふみお、天保7年4月5日1836年5月19日) - 明治24年(1891年10月27日)は、幕末の広島藩の武士、のち明治政府の官僚、のちジャーナリスト、自由民権活動家。戯画入り風刺雑誌『団団珍聞』・『驥尾団子』を発行した。幼名虎吉、通称文夫・文機。1842年から1872年まで、村田家の養子でいた。号に雨荘・簾雨・秋野人。
== 生涯 ==
広島藩の眼科の藩医、野村正碩の子に生まれた。長兄に正精がいた。1842年(天保13年)、藩医村田尚文の家を継ぎ、のち、尚文の娘『田鶴』と結婚した。
藩儒頼聿庵頼山陽の子)に漢学を学んだ後、1855年(安政2年)緒方洪庵適塾に遊学して蘭学・医学を修めた。藩から学資を支給され、修学延長も許されたが、1862年(文久2年)洪庵が江戸へ出仕するに及んで広島へ帰り、藩主浅野長訓の蒸気船の購入に長崎を往復した。
1864年(元治元年)(28歳)、蒸気船の修理と英学学習とに長崎を再訪した。翌1865年(慶応元年)、グラバーの斡旋で、肥前藩石丸安世・馬渡八郎と共に英国へ密出国し、グラバーの故郷、スコットランドアバディーンで19ヶ月勉学してから各地を回り、パリ万博も見て、1868年(慶応4年)長崎に帰着した。
広島藩は密航を咎めず、洋学教授職・洋学校教官・議事所議員・医学係教授などに厚遇した。1969年、『西洋聞見録』を出版した。
1870年(明治3年)(34歳)秋、明治政府に招かれ、民部省工部省内務省に勤務して従六位・五等出仕に栄進したが、1877年初、依願退職した。
世の警鐘としてのジャーナリズムの重要さは、西洋聞見録の一節に説いた事だった。文夫は退官の翌2月、神田雉子町(現・東京都千代田区神田司町の自宅に団団社を起こし、翌3月24日、戯画入り風刺雑誌団団珍聞を創刊した。編集陣には梅亭金鵞・田島任天・総生寛・真木痴嚢・鶯亭金升らがいて、画家には本多錦吉郎小林清親田口米作ジョルジュ・ビゴーらがいた。好評で、創刊の1877年に年間約15万部、1880年には約26万部を売った。1878年10月から1883年まで、妹格の『驥尾団子』誌も刊行した。
1878年(明治11年)(42歳)、村田田鶴と離婚して野村姓に戻り、塩田八重と再婚した。1882年立憲改進党に入党、島田三郎らと自由民権の演説に回り、1884年に離党した。
1889年(明治22年)、日本新聞の発刊に参画し、雉子町の自宅を日本新聞社に譲渡して小石川区音羽町(現・文京区音羽)に転居した。東京政友会を設立した。旧藩主浅野長勲谷干城三浦梧楼杉浦重剛らの日本倶楽部に参加した。
1890年、八重と離婚した。その翌年の秋、食道癌のため没した〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)22頁〕。墓は染井霊園にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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