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野村浩将 : ミニ英和和英辞書
野村浩将[のむら ひろまさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [しょう]
 【名詞】 1. commander 2. general 3. leader 

野村浩将 : ウィキペディア日本語版
野村浩将[のむら ひろまさ]

野村 浩将(のむら ひろまさ、1905年8月16日 - 1979年7月8日)は、日本の映画監督脚本家である。本名は野村 員彦(-かずひこ)、監督としてのデビュー時は本名でクレジットされた。
== 人物・来歴 ==
1905年(明治38年)8月16日京都府に生まれる。
1924年(大正13年)、松竹キネマ松竹蒲田撮影所に入社する〔生誕百年特集 映画監督 斎藤寅二郎と野村浩将 東京国立近代美術館フィルムセンター、2009年9月18日閲覧。〕。助監督を務め、1930年(昭和5年)、鈴木伝明田中絹代主演の映画『鉄拳制裁』で監督としてデビューした。デビュー時のペンネームは「野村員彦」名義であった。翌年の監督第8作『涙の愛嬌者』から「野村浩将」となる。
1931年(昭和6年)12月4日公開の『令嬢と与太者』がヒット〔、磯野秋雄、三井秀男(のちの三井弘次)、阿部正三郎の3人組の「与太者シリーズ」として連作され、1935年(昭和10年)12月31日公開の『与太者と若夫婦』まで全11作を野村がすべて監督した。
1932年(昭和7年)には、松竹が政岡憲三を招いて前年から取り組んでいた、日本初のトーキーによるアニメーション映画力と女の世の中』で、アフレコ演出を行い、「発声監督」としてクレジットされた。
1936年(昭和11年)、松竹大船撮影所へ異動した。同年に監督した川崎弘子主演の映画『人妻椿』、1938年(昭和13年)に監督した田中絹代主演映画『愛染かつら』で名を馳せる〔。
第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)、水戸光子佐分利信主演の『駒鳥夫人』を最後に松竹を退社、新東宝に移籍した。同社での初仕事は、1949年(昭和24年)1月4日公開、上原謙高杉早苗主演の『夢よもういちど』であった。1956年(昭和31年)、同社を離れ、大映で『祇園の姉妹』を含め、東京と京都の両撮影所で4作を監督した。1957年(昭和32年)に新東宝に復帰、『戦雲アジアの女王』を監督した。新東宝では、1959年(昭和34年)公開の日米映画製作、新東宝配給作品『恐怖の罠』まで、通算18本を監督した。
1960年(昭和35年)、テレビ映画諜報』を監督、同年4月21日にフジテレビで放映された。
1979年(昭和54年)7月8日に死去した。満73歳没。生涯に100本を監督した〔#外部リンク欄、日本映画データベースの本稿リンク先の記述を参照。二重リンクを省く。〕。
2005年(平成17年)11月、東京国立近代美術館フィルムセンターで、生誕百年を記念し、同年生まれの斎藤寅次郎とともに回顧上映が行われた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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