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野村 瓜州(のむら かしゅう、1736年〔瓜州の生年に関する確かな史料は存在しないともいわれる。府中市郷土の森編『府中市郷土の森紀要 第1号』(府中市教育委員会、1988年)の「野村瓜州と四人部屋」には「没年から逆算すると元文元年(一七三六)の生まれである」との記述がある。〕 - 1811年10月28日)は、江戸時代後期の日本の漢詩人、文人、教育家。名は維民。字は子則。通称は六郎右衛門。雅号は瓜州。 == 略歴・人物 == 神戸(「ごうど」と読む。甲州街道の府中宿〔村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》を歩く№10 〕、現在の東京都府中市宮西町にあたる。)にて父の後を受けて旅籠「四人部屋」を営む傍ら、漢学者の野村延陵、国学者の服部仲英について学び、漢詩をよくした。その著に『坦坦草』一巻がある。当時の江戸の文人・趣味人で「四人部屋」の名を知らない者はなかったとされ〔府中市教育委員会編集『武蔵府中の文化財』(府中市教育委員会、1965年)p.45〕、瓜州はとりわけ平秩東作、菊池五山、春登上人らと深い交遊があった〔春登上人の遺稿『花水吟草』に、四人部屋集会の規約が書かれている(猿渡盛厚『武蔵府中物語 上』大国魂神社、1963年、p.121)〕。後年は「松羅園」という名の塾を開き、子弟の教育に力を注いだ。1811年10月28日病没。法名は観山喜法。墓碑は東京都府中市片町の高安寺にあり、1959年12月11日に同市の史跡に指定された。墓碑の撰文は大田南畝によるもので、碑面には「瓜州先生墓」とあり、碑陰には略伝が詳細に刻まれている。なお、瓜州には実子が無く、養子を迎えて3人の孫(二男一女)がいた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野村瓜州」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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