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野村 綱(のむら つな、1845年12月17日(弘化2年11月19日) - 1906年(明治39年)5月17日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧薩摩藩士。旧名与八左衛門〔田尻先生伝記及遺稿編纂会編纂 『北雷田尻先生伝記 上巻』 田尻先生伝記及遺稿編纂会、1933年10月、16-17頁 。〕。 宮崎県学務課長、県立宮崎学校長、鹿児島県会(鹿児島県議会の前身)初代議長、文部省普通学務局次長、宮崎県尋常中学校(宮崎大宮高等学校の前身)校長を歴任した。 == 来歴 == 弘化2年11月19日(1845年12月17日)、砲術家野村好酔(別名・彦兵衛、延綱〔前掲田尻先生伝記及遺稿編纂会、358頁 。〕)の子として鹿児島天神馬場に生まれる〔松尾。日高。〕。幼少より和学・漢学を修め、のち合伝流兵学、荻野流砲術、渋川流柔術、さらに西洋兵学を学んだ。元治元年(1864年)11月、物頭として長州征討に従軍し、戊辰戦争では越後から奥州に転戦〔松尾。〕。明治4年(1871年)、御親兵の小隊長として東京の市ヶ谷に駐留し、廃藩置県が断行された7月には陸軍中尉に任じられたが、兵制改革に異論があり辞任〔「公文録・明治十五年・第二百七巻」。 「単行書・鹿児島征討始末別録二」。〕。鹿児島に帰り、郷学を設けて子弟の教育に当たった〔松尾。〕。 明治6年(1873年)7月、宮崎県第二大区区長となり、同年9月に宮崎県十三等出仕、10月に宮崎県中属、翌年9月に宮崎県八等出仕に進んだ〔「公文録・明治十五年・第二百七巻」。松尾。〕。この間、明治6年10月に学務専任となり、翌年9月に県立の教員養成・中等教育機関宮崎学校が設けられると校長を兼務〔宮崎県編 『宮崎県史 通史編 近・現代1』 宮崎県、2000年5月、242頁。「各大学区府県学事ノ景況」(『文部省第一年報』)102丁表 。「督学局年報 二」(『文部省第三年報 附録第一』)115頁 。〕。さらに翌明治8年(1875年)5月から県学務課長兼庶務課長を務めた〔松尾。〕。 明治9年(1876年)8月に宮崎県が鹿児島県に合併され、11月に宮崎学校が廃止されると、元生徒9人を伴って上京。修学の途を講じている〔前掲宮崎県、262頁。蛯原啓世著 『宮崎県教育小史 II』 鉱脈社〈みやざき文庫〉、2014年9月、134頁。〕。西南戦争勃発直前の翌年2月、内務卿大久保利通の命により密偵として鹿児島に帰県したものの、県当局に拘束され、西郷隆盛暗殺計画への大久保の関与を匂わせる口供書を取られることになった〔日高。『鹿児島県史 第三巻』 鹿児島県、1941年9月、919-923頁 。黒竜会本部編輯 『西南記伝 中巻一』 黒竜会本部、1909年11月、69-94頁 。徳富猪一郎著 『近世日本国民史 第九十五巻 西南役緒篇』 近世日本国民史刊行会、1962年3月、337-353頁。「単行書・鹿児島征討始末別録二」。 〕。 明治13年(1880年)2月、第1回鹿児島県会議員選挙に宮崎・那珂二郡の選挙区から立候補し当選。5月に開かれた通常県会で初代県会議長に選出された。選挙区数変更にともなう翌年3月の選挙では宮崎郡から立候補し再選。4月の臨時県会で再び議長に挙げられ、さらに常置委員に選出されたが、明治15年(1882年)3月の通常県会で野村も賛同する日向国分県建議案が否決されると議長を辞した〔鹿児島県議会編さん 『鹿児島県議会史 第一巻』 鹿児島県議会、1971年3月、54-56頁、119-120頁、139頁、102-109頁。同 『鹿児島県議会史 別巻』 鹿児島県議会、1971年3月、1-4頁、53頁、56頁。〕。またこの間、明治13年7月から翌年まで宮崎郡上別府村外十八ケ町村の学務委員を務めている〔前掲蛯原、135-136頁。〕。 明治15年4月、文部省准判任御用掛となり、同年12月に准奏任御用掛、明治17年(1884年)2月に文部権少書記官に昇任。普通学務局(のち学務二局)に勤務し、明治16年(1883年)6月から明治18年(1885年)1月まで体操伝習所にも兼勤した〔「公文録・明治十五年・第二百七巻」。『官報』第183号、1884年2月12日、4頁 。同誌第482号、1885年2月12日、7頁 。「体操伝習所第五年報 」(『文部省第十一年報』)。『官報』第465号、1885年1月21日、2頁 。〕。明治18年12月、森有礼が初代文部大臣に就任すると視学部勤務となって第一地方部長心得を命じられ、翌年3月の官制改革で文部省視学官に更任。改めて第一地方部担当を命じられた。明治20年(1887年)12月には普通学務局次長に進み、局長不在の同局を統括。その後、明治21年(1888年)9月に文部省参事官に転じ、明治24年(1891年)3月に非職となるまで同省に勤務した〔『官報』号外、1885年12月29日、3頁 。同誌第798号、1886年3月4日、40頁 。同誌第802号、1886年3月9日、98頁 。同誌号外、1887年12月29日、15頁 。金井之恭ほか共纂 『明治史料 顕要職務補任録 下巻』 成章堂、1903年5月増補再版、321頁 。『官報』第1574号、1888年9月26日、258頁 。同誌第2321号、1891年3月30日、320頁 。〕。なお、野村は渋川流柔術7代目・渋川英実の門人であり、明治16年1月、英実没後に途絶えていた道場を東京の本郷元町に再興。多数の門下生を擁したという〔綿谷雪著 『完本 日本武芸小伝』 国書刊行会、2011年2月、ISBN 9784336053459、346頁。大沢由也著 『青雲の時代史 : 芥舟録・一明治人の私記』 文一総合出版、1978年4月、203-204頁。〕。 明治27年(1894年)3月、非職満期となり退官。宮崎の江平に移り、同月実施の第3回衆議院議員総選挙に宮崎県第一区から立候補したが次点で落選した〔『官報』第3220号、1894年3月28日、301頁 。松尾。前掲宮崎県、487-488頁。〕。同年8月、学校騒動のため辞任した校長の後任として宮崎県尋常中学校に招かれ、明治29年(1896年)2月まで在職〔宮崎県立宮崎大宮高等学校創立百周年記念事業委員会・大宮高校百年史編集委員会編 『大宮高校百年史』 宮崎県立宮崎大宮高等学校弦月同窓会、1991年11月、32-38頁。〕。以後、同地で晩年を送り、明治39年(1906年)5月17日に病のため死去した。享年62〔日高。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野村綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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