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野村 金吾(のむら きんご、1907年2月24日 - 没年不詳)は、日本の撮影技師である〔映画世界社, p.199.〕〔映画世界社, p.180.〕〔''野村金吾''、日本映画データベース、2013年4月23日閲覧。〕〔''野村金吾''、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月23日閲覧。〕〔''野村金吾''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月23日閲覧。〕。本名野村 金次郎(のむら きんじろう)〔。 == 人物・来歴 == 1907年(明治40年)2月24日に生まれる〔〔。 旧制中学校に進学するも、中途退学して映写技師となり、映画常設館に2年間勤務する〔。満16歳となった1923年(大正12年)5月、牧野省三がマキノ映画製作所を設立するとともに同社に入社、等持院撮影所現像部に配属される〔。同社は、1924年(大正13年)7月に東亜キネマに吸収合併され、同撮影所は東亜キネマ等持院撮影所となるが、1925年(大正14年)6月には、牧野が再度独立、御室撮影所を開いてマキノ・プロダクションを設立、野村はこれに同行する〔〔。記録に残るもっとも古い野村のクレジットは、満20歳になった1927年(昭和2年)4月1日『週間苦行』(監督マキノ正博)であり、三木稔(三木滋人)との共同で撮影技師としてクレジットされた〔〔。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、野村は、松浦茂、石野誠三、三木稔、大塚周一らとともに「撮影技師」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年4月23日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月3日に公開された『親爺天国』(監督三上良二)を最後に退社している〔〔。 3年のブランクを経て、1934年(昭和9年)には、嵐寛寿郎率いる嵐寛寿郎プロダクションに入社〔、新しいトーキーシステムを携えて京都に戻ってきたマキノ正博が録音技師を務める作品で、いくつかトーキー作品の撮影を務めるようになる〔〔。1937年(昭和12年)10月5日に発行された『毎日年鑑』(毎日新聞社)の同社の項目では、所長の嵐寛寿郎、脚本部の白谷一夫、監督部に仁科紀彦(仁科熊彦)と吉田保次、そして撮影部に吉見滋男とともに名を連ねている〔毎日, p.349.〕。 同年、奈良・あやめ池の全勝キネマに移籍し、ふたたびサイレント映画の撮影を手がけるが、満31歳となった1938年(昭和13年)9月15日に公開された『義剣血風陣』(監督金田繁、解説版)以降、作品歴が不明である〔〔〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野村金吾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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