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野田 持忠(のだ もちただ、生没年不詳)は、室町時代・戦国時代の「永享の乱」から「享徳の乱」の時期に活躍した武将である。古河公方・足利成氏の重臣であり、関東野田氏当主、下総国・古河城主のちに下野国・野田城の城主。野田右馬助とも呼ばれる。〔『戦国人名辞典』788頁(見出し「野田持忠」の解説・長塚孝執筆)〕 == 生涯 == 生没年不詳。永享から康生年間(1429~1457年)に活躍した。実名中の「持」は鎌倉公方・足利持氏の偏諱である〔佐藤博信「野田家文書の伝来と現状」 『野田家文書』、9-16頁。 なお本稿は、佐藤博信 『中世東国の権力と構造』 校倉書店、2013年、281-300頁 にも収録。〕。 永享12年(1440年)、結城合戦の際に、結城方として古河城に立て籠った城主「野田右馬助」が「野田持忠」と考えられている。〔 〔籠城した「野田右馬助」の実名について、『古河志』では『鎌倉大草紙』における嘉慶元年(元中4年・1387年)の「古河住人」と同じ人物としている(『古河市史資料別巻』 227頁)が、この「古河住人」は「野田等忠」が該当する(例えば、『古河市史通史編』155 頁)。また『古河志』は実名として、『続太平記』の「野田右馬助行氏」、『関東古戦録』の「野田右馬允安重」を併記している。〕 『鎌倉大草紙』・『永享記』によれば、古河城主・野田右馬助は家臣の矢部大炊助らとともに城に立て籠もるが、翌年、結城城陥落後に上杉清方の来襲を受け落城。野田右馬助は逃走し、矢部大炊助は戦死した。〔『古河市史通史編』156 – 162 頁(永享の乱から結城合戦へ)〕 野田氏は木戸氏とともに鎌倉府・奉行衆の宿老だった〔 〔『野田家文書』 No.6 群書類従本「殿中以下年中行事」〕。永享の乱で鎌倉府は一旦断絶したが、新しい鎌倉公方・足利成氏のもとで再興し、持忠もその家臣として活動を始める。宝徳3年(1451年)、野田持忠は「野田持保」の知行に強入部している〔『野田家文書』 No.7〕 〔。これは成氏派が自力での失地回復を目指した活動の一つであるが、室町幕府から批判されることになる〔佐藤博信(1989) 、61頁(足利成氏とその時代)〕。 享徳4年(1455年)、享徳の乱のため成氏が古河城に入り「古河公方」となると、下野国・野田城(足利市)に入り、上杉氏に対抗した〔。 享徳の乱初期には、上野国の岩松持国を足利成氏に取り次いだ。康生2年(1456年)以降の動静は不明である。〔 〔『野田家文書』 No.8~19〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野田持忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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