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野田氏(のだし)は日本の武家。 ここでは室町時代・戦国時代に活動した関東野田氏について解説する。野田氏は主に下総国・古河城および栗橋城を根拠とした。鎌倉公方・古河公方の家臣であり、特に古河公方の時代には簗田氏と並ぶ重臣であった。 == 概要 == 『野田氏家系図』および『頼印大僧正行状絵詞』〔例えば、『野田家文書』 No.3〕 によれば、野田氏は尾張国・熱田神宮の宮司・藤原氏(藤原南家)を起源とし〔『古河市史通史編』154 – 156 頁(古河城主野田氏)〕 〔太田亮『姓氏家系大辞典』では、「桓武平氏簗田氏族、平維茂の裔にして下野国簗田郡野田邑より起こる」としている。(『古河市史通史編』155 頁)〕、のちに関東に移り、木戸氏とともに鎌倉府・奉公衆の宿老となった〔 〔『野田家文書』 No.6 群書類従本「殿中以下年中行事」。 すなわち至徳3年(1386年)、下総国の下河辺荘が鎌倉公方の御料所となった〔『頼印大僧正行状絵詞』による。例えば、『古河市史資料 中世編』No.1521〕際に、公方家の家臣として下河辺荘・古河城に入る。〔 享徳3年(1454年)に始まる享徳の乱で、第5代鎌倉公方・足利成氏が古河に移座して古河公方となった後は栗橋城に移り、家臣として支えてきたが、公方家の内訌に連動して一族間に分裂と抗争が生じ、次第に弱体化して 〔佐藤博信「野田家文書の伝来と現状」『野田家文書』、9-16頁。 なお本稿は、佐藤博信 『中世東国の権力と構造』、校倉書店、2013年、281-300頁 にも収録。〕 居城である栗橋城も失った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野田氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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